意味の超越

記事での返信ではなく直接的なやり取りを望む方も少なくないが、すると貴重な時間やフォースを特定の個人のためだけに費やすことになる。どこかで線引せねばならぬが、置いてゆくわけにはいかない。しかし、実践的かつ技術的な質問はほとんどなく、どれも自我の質問である。公開したもので印象に残った文章で、「伝導体が何を意味しているのか分からない」というものがあった。これは考えさせられた。おそらく、魂の波動が降りてきて流入しているだけでは、自身つまり形態がただの伝導の媒体でしかないという認識には至らず、まだ「自分」という感覚が強く、高位のエネルギーを循環させ、魂あるいは魂の波動は認識できても、その背後の一つなる実相すなわち観照や孤立した統一の認識には近づくこともならず、依然として分離した個人意識に囚われていることが分かる。魂のエネルギーが来ることはいいが、それと自身というフォースを一体化させ調和させなければ、意識は個我を超越することはできない。

もし真我を知るならば、個人の問題はどうでもよくなるものである。問題とは、問題が喚起する負の情緒や想念との同一化のことであり、その出来事自体は決して問題ではない。それを問題化する自身が問題の根源なのである。この、何事も問題化したがる自我――それによって養分を得ようとする諸体のエレメンタルはより高い波動によってのみ統御することができる。形態は、そのような波動の受け皿になるよう霊的に意図して作られており、また通過させるエネルギーつまりフォースは、波動的により弱いもの、安全なものとしてステップダウンされ、下位の王国つまり下位の生命形態存在の世界に流出されるよう意図されている。これを伝導媒体と言うのである。もちろん、その伝導体を通して、世界という演出舞台において、様々な役割とそれに応じた学びがあり、その中で助けを求める真の兄弟姉妹たちと接触し、人類に対してもステップダウンされたエネルギーの表現が霊的に行われねばならない。これを奉仕と言う。

この世の奉仕では、たとえば食料を分かち合う。食料は肉体を養う糧である。一方で霊的奉仕は、霊性そのものを分かち合う。それは知恵であるかもしれず、愛であるかもしれない。その目的は、肉体から魂へと意識を移行させたり、さらに高位の移行であったり、すべて神と呼ばれる我々がその部分でしかないお方の計画を首尾よく進めんがためのものである。個人ではなく、全体像を捉えられるようにならねばならぬ。個人のことは、どうでもいいではないか。その境地に至らねば、真の意味での生の目的に生きることにはならないのである。

個人意識から切り離され自由になる必要がある。逆説的に見えるかもしれないが、それは個人のことを気にしないことによって達成される。個人を気にしないようにさせるのは魂である。個人意識から魂意識へと早急に住所変更し、安全で平和な棲家に移住し、そこから全体とその部分でしかない個人を眺めるべきである。そのとき、重要なのは全体であって、個人はそのためにいくらでも喜んで犠牲になるべきものでしかない。これが真の全体主義であるが、この世ではいつものように善きアイディアは常に悪に乗っ取られ、著しく歪曲され、人類の霊的認識を妨げようとさせる罠や試みしか跋扈していない。アストラル界の存在を見たり、サイコメトリーであったり、そういうものではなく、本物と偽物を即座に見分ける能力が真の透視である。物事の背後のフォースの種類を見極めさせる霊的本能こそが求められる透視である。さらに言えば、透視によって理解された真贋において、真にのみ生きることが本物の投資である。このとき、透視による投資と奉仕と犠牲はどれも同義語である。

投資で思い出したが、質問の中にあった「資産管理」という概念についてだが、いま述べたような真の投資つまり霊的な理解から来る奉仕と自己犠牲に生きるならば、その投資のリターンの責務は法則と神にあり、それは確実なものである。この世の投資は詐欺だが、神への奉仕は最高の誠実であり、喜びであり、美であり、絶対愛である。神に生きるとは、神で在ることである。自我が「在る」という概念に触発されて「在ろう」と真似ることではない。まだ自我で「する」に生きているではないか。それは条件づけられていることを意味している。自我と真我は無関係である。自我と魂は関係していない。真実は錯覚を照らし出すかもしれないが、真実は錯覚に対して完全に無関心である。光は、闇を知らない。

融合すなわち意識の変容までの過程においては、分からぬことだらけであるかもしれない。しかしそれは、頭で考えるから分からないのであって、頭で理解できぬものはどこまでいっても理解できぬという当たり前の事実を受け入れ、頭すなわちマインドではなく、むしろそれを高位のエネルギーとの同一化によって静め、マインドの背後の真我という最高至福に溶け込まねばならない。ところが、我々は個人に執着している。錯覚しているから。しかし、真我に溶け込むためには、いかなる偽への執着があってはならない。それが障害になって、そこで引っかかって、先に進めないということである。だから、執着させる無知をまず溶かすために、言い換えると、条件づけてくる低位我のフォースを高位我のエネルギーで上から置き換え、上書きし、調和の意味を知り、内なる完全平和を達成し、天真爛漫に武装解除せねばならない。これがオープンマインドである。それは一体化である。

私はしばしば記事を書いたあと、その記事について周囲の者に問われた場合、人々の前で話しまくることがある。すると、「記事と音声をセットにすればいいのに」と言われる。記事だけでは到底分からぬことが、話によってかなり補完され、はっきり「意味」が理解できるようになると言われる。しかし、本当に分かったのか。頭で分かったことを分かったと言っているのか。頭で分かることと実践は無関係だというのが実態ではないのか。意味の理解はマインド止まりを意味するだけではないのか。……私は、頭に理解させることに拘っていない。「意味」の理解はただの導入口でしかない。実践で、実際に知ることだけが重要なのである。このような文章や、口を使った話などは、その入口まで引っ張るためのものであり、そこから先は一人でしか歩めぬ。

一般の人々は意味の世界で生き、そこに存在している。イニシエートと大師は存在の世界に焦点を置いている。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.139

頭でだけ分かった気になるために、私のところへ話を聞きにきたりする集まりは不要なものであるが、だからといって置き去りにすることはできぬゆえ、私がいま言っていることを理解し、瞑想という途方もない宝を活用し、世の中の偽の瞑想法ではなく、おのれで見出した瞑想の真髄だけが価値あるものであることを知り、モノマネ瞑想をやめ、真に独りで、己に向かわねばなるまい。この孤独の道だけが、一体という愛の悟りへ導くものである。神は愛である。これを知るとき、我々と神とのあいだに、どのような間隙も隙間もなく、神と一体であり、神そのものであり、我神なりの意味を知るであろう。すると、他人とか犬とか他の形態を見たり触れ合ったりしながらも、決して観照から外れることはなく、常に形態の背後の神を知り、神我一体でこの世を生きれるようになるだろう。そのときはじめて、「世にあって世のものにならず」と言えるようになるであろう。それは、神への帰還であり、ただ「在る」という、存在の世界のことである。

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