「私が行為者であるという感覚」つまり地獄

我々つまり自我は、「私」という感覚を持つ。しかしながら、我々が発見すべき新しい意識領域には、「私」という感覚が存在しない。マインドが魂に統御されているため、「私」という想念が存在できない。これが純粋意識つまり魂意識である。

しかし、我々は「私」という想念や感覚を前提とした意識領域に存在している(と思い込んでいる)。結局のところ、マインドが魂を介して降下するエネルギーに身を委ね従っていないため、メンタル活動が四六時中続いており、そのマインドが生み出す想念という錯覚の中に意識は幽閉され、高次の領域とは全く別のものを見て感じているのである。それはちょうど、暗い海の中で溺れている人が、抵抗を止めさえすれば、人体はそのまま浮くという事実に身を委ね、上にあがってただ海から出ればいいだけであることを知らないようなものである。この喩えにおける暗い海中とは「私」という想念である。抵抗を止めるとは「瞑想」に入るということである。すると高次の意識にそのまま浮上し、新しい意識領域でまさに息が出来るようになり、過去の私は海に沈めたまま、輝く太陽と、その輝く光を呼吸するだろう。むろん、ここでの太陽は魂の象徴である。

しかし、まだ下半身は海の中にあり、上半身――胸から上だけが、いわば海から顔を出している状態である。したがって我々の瞑想は続く。つまり、下半身のセンターのエネルギーを、上半身のセンターに移行させることで、我々は海から脱してさらに浮上し、輝く太陽そのものになることができる。すなわち、太陽叢センターのエネルギーはハート・センターに、仙骨センターのエネルギーは喉センターに、最後に脊柱基底センターの物質の火であるエネルギーが、ヘッド・センターへと移行されねばならない。こうして、それまでの「私」は完全に消え去る。

活動や環境が影響を与えることはできない。障害をつくり出すのは、「私が行為者だ」という感覚である。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.307

行為は助けとなるよりはむしろ、妨害となる。……あらゆる行為は自然の三つのグナ(サットヴァ・ラジャス・タマス)で行われるのであって、魂で行われるものではないことを知り、自分自身が本当に行為をしているという考えをまず追い払わなければいけない。……自分は行為者ではなく、単に行為の目撃者にしかすぎない。

H・P・ブラヴァツキー「実践的オカルティズム 」p.37

究極的な本質論を言うならば、「私」という誤った想念が諸悪の根源である。我々が目指している意識においては、決してそのような「私」はないことを知り、行為者という錯覚の観点からは撤退して、ただの存在へと帰らねばならない。「私は在る」で十分な意識領域である。逆に自我は、肉体・アストラル体・メンタル体、各々のエレメンタルを養わねばならないため、常に行為が必要である。しばしば修行者に憧れて山などに逃れる自我が最終的に耐えられないのは孤独だといくつか前の記事で書いたが、いくらかの者はそれに耐えられる。しかし、絶対に耐えられないのは、「暇」である。何もすることがないこと、これだけは自我は耐えられない。確実に狂ってしまう。何もしないでいることは、自我の死を意味するからである。ところが、瞑想は安々と「何もしないこと」を達成させ、諸体のエレメンタルを勝手に死滅させてしまうのである。このようにして真我が顕現する。

ではなぜ、「安々と」何もしないことが可能になるのだろうか。「する」が錯覚だということ、「する」と真我が関係ないことを見い出すからである。そのとき瞑想者は、「する」必要のない領域、すなわち「私は在る」という存在の領域に焦点化されているため、他はすべて観照されるだけである。このようにして人間は神に近づく。

何日か前に自我瞑想の意味について質問を受けたが、世の中の人が「私」で行為しているのと同じ延長線で、「私が瞑想する」と思っている状態が自我瞑想である。これは、低位我の意識に、高位我が認識されていないために生じる地獄意識である。我々の本質は、間違った「私」という錯覚の中で窒息しそうになっている。それを人間は苦痛として認識し始める。ブラヴァツキーが、「真我以外はすべて苦痛である」と言ったように、深く暗い海の中に閉じ込められて、どうしていいか分からず、息も絶え絶えにもがいている。普通の人の意識はこの苦痛をまだ認識できないが、進歩するに従い、個人意識は「私」に耐えられなくなる。よって個人すなわち「私」は犠牲にされねばならないという結論に到達する。そして、その犠牲がまさに瞑想によって、思ったよりも簡単に達成されゆくことを理解するのである。

瞑想とは、行為からの撤退であり、高位への前進である。瞑想状態とは魂の状態であり、強烈な生き生きとした沈黙であり、生自体を認識させるものであり、信じられぬばかりの至福へ導くものである。ずっと息ができなかった者が、やっと息ができるようになるぐらいに必要な天国である。瞑想を続けるうえで、やがて理解するだろう。そうすると、徐々に「私」という感覚が苦痛になり、環境や出来事が不幸を引き起こすのではなく、「私」という想念が最悪の不幸であることに気づくだろう。

「私」とはただの想念である。なぜ人はこれに気づかないのであろうか。その「私」を使ってまだ経験が必要だからである。さんざん経験を積んだ魂は、もはやこの世に楽しめるものや喜べるものが何もないことを理解するゆえ、早く神の我が家に帰ろうと考える。どういえばいいものか。もし「私」が自我のままならば、対応して見えるのはこの世である。この世に肉体として生きていると錯覚するだろう。しかし、瞑想でマインドが魂として乗り越えられるならば、かつての「私」は存在せず、したがって「この世」も実在ではありえなくなる。完全に無関係になり、全く影響を受けなくなる。そのひじょうに静かな境地では、あらゆる分離がなくなり、つまりあらゆる対立がなくなり、真の平和が達成され、このうえない至福に満たされる。この領域は秘められているわけではない。我々が、現状の「私」にこだわり執着するほど無知に陥っているがゆえ、結果的に秘められ閉ざされていることになるのである。下を向いている人に上が見えないのと同じことである。そして上を見るためには、「上にならなければならない」のである。道を辿る前に道そのものにならなければならない。上を見る前に、上が訪れなければならない。その土壌を意識につくり出すのが瞑想である。

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