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何がマインドを超越させるのか
瞑想する人の多くが、想念が想念であることには気づいていない。想念の中身を想念と呼んでおり、想念という単語自体が概念であり、想念でしかないことには気づかない。つまり、想念を物質や形態として扱っていない。 もっと分かりやすく言うべきか。「想念を統御しよう」と我々は言う。それは「Aを統御しよう」と言うのと同じであり、Aは想念である。Aの内容物ではなく、Aがそもそも思想である。これは理解が難しい可能性がある。 弟子が働きかけるのは、想念の内容物ではなく、想念自体である。それはメンタル・... -

太陽ニ殺サレタ
注意深く生きている限り、注意深い意識を保持している限り、人間にはほとんど全ての問題に対処しうる能力がもともと備わっていることを発見するであろう。たとえば、私のかかりつけの医師は、神の意志である。生命エネルギーという意志である。このエネルギーを用いて、思うがまま、とはいえ神の法則に準じたまま、私は(つまり意志は)、あらゆる表層的な現象や事象の背後の原因に働きかけることで、外的に結実した問題をその内側から統御している。 病気に対する人間の反応は、病気が引き起こす苦痛を緩和しよう... -

神の血行
神の第一様相である生命や意志の人体における主な象徴として、血液が挙げられる。血液がより純粋で、乱れなく、滞りなく、あらかじめ設計されているよう円滑に循環できるようにしておくのが肉体の健康における基本である。一昨日、昔から知っている者が、もう中年太りで、前は足が速かったが走れもせず、歩くのも膝が痛い、動くとすぐに息が切れる、疲れやすい、もはやいつ死んでもおかしくないと自嘲ぎみに語っていた。身体は硬く、ほとんど前屈もできない。その者の奥さんが、もっと肉体を大切にしてほしいと切... -

何が働くのか、私ではない
正直な書き方をしてみよう。「私は勝手にできるようになった」という言い方が正しい。何が言いたいのか。途中までは、「自分」で行う感覚がある。「私は霊的な技をすることができる」と感じる。しかし、実態をよく見るならば、「行う」のは、もしくは「行っている」のは、力やエネルギー自体である。決して「私が行う」ではない。力やエネルギーや流れが、あるいは意志が、私と思われている媒体に行ったり、媒体を通して行為したりしているだけである。これに異を唱えられる者がいるであろうか。媒体が行うのでは... -

瞑想の対象
見習いを卒業した弟子たちは、自身が魂であることを認識しているが、その初期段階では、個人が魂を認識しているということに気づいていない。つまり、まだ個人的観点に生きているということは、まだ個人に生きており、魂ではないことを理解していないことになる。瞑想で魂的な領域に入れるようになり、そこに人間の人知を超えた霊的至福を味わうことが可能であるかもしれないが、味わうとは、味わわれるものを知覚していることであり、味わう者と味わわれるものの間に違いや隔絶がまだ存在しているということであ... -

神の喜劇
家族がいるから夕食のときなど何かしら見ることが多い。一昨日ぐらいだったか、トッテナムが降格しそうで今度はデ・ゼルビになったという話でサンダーランド戦を見ていると、ロメロが怪我で退場となったとき、泣いているのである。それで妻が可哀想に思って、「どんな気持ちなんだろう」と言っていた。どれだけ辛いのだろう、という意味なのだろう。 劇中に申し訳ないが、この泣いている男は単に演技中である。私からすればもらい涙の対象ではなく笑いの対象である。なぜなら、肉体個人が感傷に陥り観客の前で泣き...

