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大日如来
誰にでも明らかなことは、世界を「見ている者」がいるということである。意識が見ているのだろうか。マインドと脳が見ているのだろうか。そのような側面が静まり返ったときもなお存在する純粋な主観のことであろうか。我々は夢を見ているとき、そして起きているとき、常に外に何かを対象化して見ている。つまり見ている者がいる。それを普通の人間は安易に私と呼ぶ。それが安易すぎるゆえ、ラマナは「その私とは誰か」と踏み込ませようとした。この「見ている者」自体に意識を反転し、多様な万象という客観から反... -

螺旋の中心、台風の目
いま苦しんでいる人間をどう助けうるか。誰が助けうるか。言葉や文章による知的理解は正しい方向性に導こうとはするが、頭の理解は我々の苦しみに対して無力である。いくら愛を語っても、愛の概念は、苦しむ者にとっては何の意味もないだろう。簡潔に言うと、苦しむ人間は、自分をその個人だと思っているために苦しみを味わっているにすぎない。我々は、苦しむ個人でも人間でもない。これは頭では分からない。個人(つまり私)という想像力の虚像が希薄化されたとき、個人の背後の魂が理解され始めるであろう。彼... -

無限力
無気力とは何なのか。気力が無いことならば、その気力とは何か、そして何ゆえに気力が無くなるのか、を人は知らねばならない。 本来、気力や無気力の背後に、無限力が存在しており、神と一致した者とはこの無限力に生かされている者である。ところが、人間には内在のダムがある。精神というダムである。この精神が無限力を堰き止め、センターの流れを阻害し、精神が元気であるならば、自身で扱える範囲内だけ無限力を受け入れ、気力に変換して活用するが、世の中で傷ついたり精神的に弱まったりすると、精神という... -

真の反面教師
ある人に嫌なことをされて、この数日、怒りと苦しみに苛まれています。 嫌なことをされたということは、あなたが以前に嫌なことをしたということだ。そして、あなたはまだ腹を立てている。相手を許せない精神とは、相手に仕返しをしてやりたいという精神である。そのような「嫌な部分」が自身の内部に存在しているという事実から取り組み始めるべきであろう。自分の嫌な性質は棚に上げて、他人の嫌な部分ばかりに焦点を当てるならば、霊的な道から外れており、それをこの世では外道と呼んでいる。 具体的にどう取... -

矢面に立つ
弟子やイニシエート方にしか見えぬ世界も含めて、現象の世界では、「←」と「→」しかない。「←」にあくまでも従い生きるならば悪魔のような存在にもなりうるし、「→」の意味と意義を理解してそれにあくまで従い生きるならば神のようになることもできる。象徴的に、現象の世界で「→」を意識的かつ意図的に扱えるようになることが人間の目標であり、実際に人間意識を超越した存在方が従っているのがこの意志と力である。ここでは、「扱う」と「従う」は同義語である。「方向づける」と「方向づけられる」は同じ意味で... -

川の流れのように
目的を持って瞑想している者は失敗する定めにある。言い換えると、瞑想で得られた力で、個人に良い効果を求めるという発想は、霊的ではなく物質的であり、そのような最初の動機に気は方向づけられるゆえ、決して調和や一致が訪れることはない。だから「瞑想に効果が見られないからやめた」と彼らは言うのである。それは、瞑想が物質的な自己を繁栄させる手段であると勘違いしたがゆえである。霊を物質に仕えさようと、神の意志ではなく、個人の意志や目的という逆の力に条件づけられていることが瞑想の失敗の原因...

