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許しに関するいくつかの質問
「この世ですることがなくなったかのようです」と言い、その方は心境の変化に狼狽していた。昔から言っているが、弟子がある段階に到達したとき、彼はこの世のものに興味がなくなる。言い換えると、何も楽しいとは思えなくなる。むしろ、何事も楽しくないと感じるようになる。他人が羨むような環境にありながら、普通の人には不可能な多くを手に入れられたり、多くを体験できうる環境であったりしながら、そのいずれにも無感情になる。こうして「することがなくなった」「することができなくなった」と感じるので... -

肉体とは関わらなくていい
毒を飲まされたとしよう。肉体は苦痛状態になるだろう。それは、肉体を自分だと思っているからである。肉体意識は、感覚知覚意識である。その苦痛に耐えられず非常に苦しむだろう。一方、私は肉体意識を瞑想で捨てた者である。私は肉体ではなく、唯一なる生命であることを理解させられた者である。長らく魂意識の時代もあったが、そこにはまだ苦痛があるか、超越不足であることにいつしか気がついた。魂でもなければ私とは誰なのか。命自体だったのである。これはもはや当たり前のことだが、気づくまでが長かった... -

夢と故郷
前の記事を書いてから、何の仕事をしてるのかと問われることがあった。誰がしているのか。或る高次の力が勝手にそれを肉体にさせているのである。しているのはその力であって私ではない。個人が行うことと私は関係がないが、しかし、個人とは何なのか。私からすれば、個人は全体であり、また神であるゆえ、つまり個人の背後のものを私は個人に見るゆえ、何の違いも存在しないのである。神しか存在していない。世界と呼ばれる夢では、神の力だけが神に似せて作られた体たちを使って働いているだけである。 つい今ま... -

最近のこと
あなたにとっての癒しは何かと言われた。「あなた」とは何のことか。パーソナリティーとするならば、パーソナリティー意識自体が非癒しである。それは非常に疲れる意識である。だから何時間も眠ったり休息する必要が人間にはある。私であったもの――パーソナリティーは魂と融合しており、その意識において、完全に癒しである。その意識では永遠に癒しの状態である。これがパーソナリティー意識を使用するとなると、疲労とストレスが生じるのである。 現在、申し訳ないのだが、記事があまり書けない忙しいカルマの周... -

未解決こそ自我の養分
人は未解決を求めている。ただし解決されたものは覚めて飽き足らなくなるゆえ、つねに未解決が必要である。届きそうで届かぬもの、神秘であるもの、掴みがたきものの距離感が必要なようである。なぜなのか。解決し、掴み取るまでの過程がアストラル体やメンタル体のエレメンタルを刺激し喜ばせるからである。自我の生という喜びを味わわせるからである。となると、探求とは名ばかりであり、非霊的であるに違いない。じじつ、わたしは探求してこなかった。ただ、ありのままをありのままに見てきただけだ。そこには... -

存在は探せない、すでに在る
実在は非実在の出現を可能にし、それを消滅させる。はかない瞬間の連続が時間という幻想をつくり出すのだ。しかし、純粋な存在の永遠の実在性は、運動のなかにはない。なぜなら、すべての運動には不動の背景が要求されるからだ。それはそれ自体、背景なのだ。ひとたびあなたのなかでそれを見つけたならば、すべての区別と分離から独立したその存在を失ったことはけっしてなかったと知るだろう。しかし、それを意識の中に探してはいけない。そこに見出すことはないだろう。どこを探してもいけない。なぜなら、何も...

