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自分のために生命エネルギーは流れていない
ここのところの記事で「奉仕」について多く語られております。私が本格的に瞑想を始めて6年になりますが、改めてその動機を内省した場合、自我である私の幸福を求めることがその動機であり、その目的であることがはっきりしております。私の中に巣くう、不平や不満、そして初期設定のように常に感じられる正体不明の不安や哀しみ、これらを何とかしたい、そして直感的に霊的な世界に解決策があるのではないかという思いがその動機となっております。そしてこの世の価値観に対し、多くの違和感やうさん臭さを感じ... -

精神力
「精神力」とはよく言ったものである。それは「精神の力」だが、もし精神を脇に置いたならば、残るのは「力」だけであることを露呈させている。非精神化を達成した後に我々の面倒を見るのは、この純粋な「力」である。この力が真の行為者もしくは行為という現象を可能にさせる力である。 「精神力」を目で見た者はおるまい。しかし「努力」や「精神力を振り絞る」ときの感覚などから、何が精神力であるかを人間は理解している。しかし、同じ行為が現象として起こるために、必ずしも精神が介在する必要はあるのだろ... -

魂の意味の確認について
魂とはサットチットアーナンダのチットまたは観照者、背後で気づいている者のことを仰っているのかと思うのですが、相違ないでしょうか? 「サット・チット・アーナンダ」は存在の三様相を示すための分類ではない。それはある段階のイニシエート意識を説明するときのものである。対して、「霊(spirit)・魂(soul)・肉体(body)」は、ジュワル・クールもしくは初期の神智学の教師であるブラヴァツキーが西洋向けに教えを提示する際にキリスト教との整合性あるいは可読性を確保するために便宜的に用いた存在の三... -

非精神化
「今日も会社に行くのが億劫だ」は、精神で生きているときに生じる感覚的幻想である。我々の問題は、必ずしも精神で生きなければならないわけではないことを知らないことである。精神で生きることがあたかも前提であるという考えの癖は、思い込みでしかない。我々は、精神を伴わずに仕事に行くことが可能である。「会社に行くのが億劫」という感覚的想念は、想念である以上、過去の記憶に根ざしたその未来への投影がもたらすものであり、ただの精神の動きに他ならない。精神は時間に生きており、時間を作り出して... -

学びと愛は万人のもの
「私は互いに対立する勢力の中間に立っている。私は調和と平和を切望し、統一から生じる美を熱望している。私は二つのものを見る。私には、相対立する勢力と、中心にある円の中に立つ私である唯一なる者以外には何も見えない。私は平和を要求する。私のマインドはそれに夢中である。すべてのものと一つになるよう私は努めているが、形態は分割する。至るところに戦争と分離が見える。私は一人で立っており、一人である。私は知りすぎている」 言葉が魂から形態へと発せられる。「両勢力は一つである。戦争、相違、... -

自我ファースト
昨日の記事で、少数野党の大同団結といった話に触れたが、そのような発想は「幼稚で非現実的」だという趣旨の反論を受けたため共に考えていきたい。 まず、大同団結できない主要な理由は、理念の差異なのだろうか。たとえば反グローバリズムならば、現在「新保守系」と括られるほとんどの政党は合流できる。問題は理念の差異ではなく、理念を自我が所有していることにあるのではなかろうか。一つの純粋なアイディアが個人のマインドを通過したとき、その個人によって独自の意見や主張や見解といったものに変換され...

