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生きる喜び
生きる目的に迷って苦しんでいる者は多い。我々は、その迷い苦しむ自己を犠牲にしたときだけ、神の目的が生きる目的であるという境地に到達するだろう。したがって、個人は至福のうちに無視されるようになるだろう。犠牲とは即至福を意味する。よって個人の目的は、神の意志と目的の顕現のために、その個人を犠牲にすることである。これだけが救済への道なのだが、依然として、我々は個人の苦境の救済を生の目的にしているのである。 前の記事だったか、鬱病の本当の苦しみを分かっていないのではないか、軽く見て... -

鬱病や生の苦痛は治るか
鬱病は治るのかという質問について。何の病気でもそうだが、罹患しているのは個人ではなかろうか。瞑想に熟練し、個人という偽の己と真の己を識別できるようになったとき、真の己はすでに至福であり、永遠に病気から無縁に美しく輝いていることを知るだろう。個人が鬱病であっても、偽我から真我へと焦点をずらすことさえできれば、病気という誤解に苦しむ必要はないのである。つまり、最初から治っている。鬱病は個人つまりマインドの自作自演にすぎなかったことを知るだろう。これだけが瞬時の治癒である。 鬱病... -

目醒めよ
私の生活はずっとひどい状態で、特に精神的には苦しみにあえぎあえぎの状態なのです。病気持ちでもあります。神智学やクリシュナムルティなどの本を読んで葛藤を統御できるだろうか、と思いましたが、そうはなりませんでした。非二元論の本も何冊も読みました。気づくことで苦しみが終わっていくと思ったのです。 気づくのはあなたではない。あなたが気づかれるのである。気づこうとしているあなたに魂として気づくことが、以前あなたの言った「気づきに気づく」の本質である。現在、あなたは一生涯だけの取るに足... -

不浄な肉体について再考を促す
意識には段階があり、まだ瞑想するには適さない方々が多いのも事実である。色々質問が来ているが、あまり私に頼らないようにし、忍耐する時期が誰にでもあることを早めに覚えるべきである。瞑想はメンタル体と魂に関するものであるが、はっきり言うと、アストラル体の統御はおろか、肉体の統御すら完了していない方々が多い。彼らの目標はまだ瞑想ではなく、瞑想に適した肉体に仕上げ、肉体エレメンタルの欲求を統御できるようになることである。 たとえば、多くの者が食べすぎである。言い換えると、肉体が不浄な... -

エネルギーの強調について
初心者つまり錯覚中の者は、外的な物事が問題だと思っている。不幸が起きればその不幸をどうにかしようとしたり、嫌いな者がいればその者をどうにかしようとするか、嫌いな者に対する自身のよくない態度を改めようと理論的に努力する。このような錯覚は、見えているものや、出来事や、世界を、まさに実在とする錯覚の態度によって起きている。考え方や、やり方というものが、全く間違っている。通常の人間には到底理解できなくても、道を歩んでいるような弟子たちは、この根本的な見当違いについて目を見開かねば... -

自我の無力さに自我は気づきたくない
ニサルガダッタ・マハラジの「私がある」に留まるという方法やルパート・スパイラの「気づきに気づく」という方法は自我意識のままでは効果がないのかという質問について。私はルパート・スパイラを知らないため、どの観点から「気づきに気づく」を話すべきか分からない。自我に教えているのならば、一定の効果はあるかもしれないが、その根本もしくは諸悪の根源である自我の「効果を得たい」という霊的野心もしくは霊的欲望については気づかれていないため、ほぼ無意味だろう。到着しているのにそれに気づかず、...

