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夢と故郷
前の記事を書いてから、何の仕事をしてるのかと問われることがあった。誰がしているのか。或る高次の力が勝手にそれを肉体にさせているのである。しているのはその力であって私ではない。個人が行うことと私は関係がないが、しかし、個人とは何なのか。私からすれば、個人は全体であり、また神であるゆえ、つまり個人の背後のものを私は個人に見るゆえ、何の違いも存在しないのである。神しか存在していない。世界と呼ばれる夢では、神の力だけが神に似せて作られた体たちを使って働いているだけである。 つい今ま... -

最近のこと
あなたにとっての癒しは何かと言われた。「あなた」とは何のことか。パーソナリティーとするならば、パーソナリティー意識自体が非癒しである。それは非常に疲れる意識である。だから何時間も眠ったり休息する必要が人間にはある。私であったもの――パーソナリティーは魂と融合しており、その意識において、完全に癒しである。その意識では永遠に癒しの状態である。これがパーソナリティー意識を使用するとなると、疲労とストレスが生じるのである。 現在、申し訳ないのだが、記事があまり書けない忙しいカルマの周... -

未解決こそ自我の養分
人は未解決を求めている。ただし解決されたものは覚めて飽き足らなくなるゆえ、つねに未解決が必要である。届きそうで届かぬもの、神秘であるもの、掴みがたきものの距離感が必要なようである。なぜなのか。解決し、掴み取るまでの過程がアストラル体やメンタル体のエレメンタルを刺激し喜ばせるからである。自我の生という喜びを味わわせるからである。となると、探求とは名ばかりであり、非霊的であるに違いない。じじつ、わたしは探求してこなかった。ただ、ありのままをありのままに見てきただけだ。そこには... -

存在は探せない、すでに在る
実在は非実在の出現を可能にし、それを消滅させる。はかない瞬間の連続が時間という幻想をつくり出すのだ。しかし、純粋な存在の永遠の実在性は、運動のなかにはない。なぜなら、すべての運動には不動の背景が要求されるからだ。それはそれ自体、背景なのだ。ひとたびあなたのなかでそれを見つけたならば、すべての区別と分離から独立したその存在を失ったことはけっしてなかったと知るだろう。しかし、それを意識の中に探してはいけない。そこに見出すことはないだろう。どこを探してもいけない。なぜなら、何も... -

競争の排除は清き生き方の知恵
競争は毒だ。霊的な意識はその調和性ゆえに美しく素晴らしいが、分離した瞬間、個我を輝かせるために戦いや勝ち負けの世界に引きずり込まれる。どのようなときであれ、何をしているときであれ、分離したらもうお終いだ。差異の比較が始まり、優劣があり、恐怖があり、引け目やコンプレックスがあり、自己防衛として勝たなければ、あるいは負かされないような立ち回りをしなければ心は潰れる。人間意識の、なんと危うく、浅ましく、痛ましく、不自由で苦しきことか。 このような世界観はもう耐えられないと、少なく... -

真の資格と合格
知覚されるものを、我々はどのようにして知覚するのか。知覚は我が内にて起こるものであることを否定する者はおるまい。たとえば目が見えないとしよう。最も身近な家族が近くに現れたことをどのようにして知覚するであろうか。気配だろうか。かけられる声でだろうか。触れられることによってだろうか。どのような知覚であれ、それは内的なものだ。では、その外的な家族が内側で知覚されるということは、知覚されるものもまた内的な存在ということにはならないか。知覚する者とされる者はともに内的な産物ではない...

