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一日中瞑想する習慣
焦点。我々の焦点はどこにあるのか。マインドだ。目に見える現象や身に起こる現象をもとに、常に何か考えている。あるいは、焦点は情緒や感情や気分だ。これらはマインドの解釈次第で生じ感じられるようになる。辛いとか苦しいとか、今日の予定は楽しみだとか、楽しみの最中の幸福感だとか、人類は情緒的な感覚知覚に焦点を当て、その種のフォースの奴隷状態にある。 私は、最初のマインドへの焦点化が起こらない。その背後の不動で不滅の本質が私である。つまり、始まりの私が人類はマインドの私だが、その背後の... -

霊
まだ分離した個人である弟子の目標は、魂との接触であり、その後、接触している魂との融合である。言い換えると、最初の二つのイニシエーションでは、弟子が扱うのは魂のエネルギーである。第二イニシエーション前の弟子の場合、脳意識において、明確に認識した状態で魂の力を諸体、特にアストラル体に適用しながら生きている。このようにして弟子は情緒性質から自由になる。まだ情緒は感じるであろうが、それらの背後の魂として、感じつつ、同時に感じるものから自由であるという意識状態を達成する。そして、知... -

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前の記事を読んだ人が、なぜ十が完成を意味するのかと言った。説明もなく十が完成と言われても困ると。だから逆に、あなたの完成度はいま何割くらいかと聞いたら、よくても一割か二割かもしれないと答えた。このように、無意識に十を普通の人たちもまた完成の象徴として捉え、多くの場面で十割や十点満点という考え方が採用されている。この世の測り方は一から十までしかない。十一から二十もまた、新たな周期の一から十でしかない。このような一から十を十回くりかえすと百だが、それは依然として十である。この... -

大和
「現世安穏」はイニシエートの特徴である。「金剛不壊」もまた熟練の弟子の特徴である。それがなぜかをここに発表したい。それは、イニシエートが常に対象に気づいているからである。この文章だけで、それがどれだけ途方もない価値を秘めているかを誰かがやがて理解するであろう。 観照者とは、常に観照されるもの、あるいは知覚されるものに気づいており、気づいていることで対象を意識内にて無効化している。前の記事で聖徳太子に触れたが、説明が不十分であると指摘されたから、その者の逸話について話すならば... -

大日如来
誰にでも明らかなことは、世界を「見ている者」がいるということである。意識が見ているのだろうか。マインドと脳が見ているのだろうか。そのような側面が静まり返ったときもなお存在する純粋な主観のことであろうか。我々は夢を見ているとき、そして起きているとき、常に外に何かを対象化して見ている。つまり見ている者がいる。それを普通の人間は安易に私と呼ぶ。それが安易すぎるゆえ、ラマナは「その私とは誰か」と踏み込ませようとした。この「見ている者」自体に意識を反転し、多様な万象という客観から反... -

螺旋の中心、台風の目
いま苦しんでいる人間をどう助けうるか。誰が助けうるか。言葉や文章による知的理解は正しい方向性に導こうとはするが、頭の理解は我々の苦しみに対して無力である。いくら愛を語っても、愛の概念は、苦しむ者にとっては何の意味もないだろう。簡潔に言うと、苦しむ人間は、自分をその個人だと思っているために苦しみを味わっているにすぎない。我々は、苦しむ個人でも人間でもない。これは頭では分からない。個人(つまり私)という想像力の虚像が希薄化されたとき、個人の背後の魂が理解され始めるであろう。彼...

