-

探求中の気晴らし
私は10年ほど前から瞑想をしたり、しなかったりの時期を経て、ここ1年ほどは毎朝40分ほどの瞑想を続けております。静かで気持ちいいなスッキリするな〜という程度の瞑想ですが、もう毎日欠かせないものとなっています。最近、自分が“する”という瞑想だったのが、存在感を実感するという“在る”という感覚の瞑想になり、ますます瞑想が心地良くなってきました。そこで私の瞑想歴ではまだ時期尚早かもしれませんが、徐々にに毎日を24時間真我、24時間マインド無視の生活に寄せていきたいと思っております。現在の私は... -

質問
1つ目は魂のエネルギーの利用についての質問です。と言いますのも今日の真昼頃、私は愚かにも牛乳を飲みすぎて腹痛を起こしたのですが、その時、魂のエネルギーを利用することを思い出し、魂に集中して頭頂からのエネルギーを利用しようと試みました。(魂の目からフォースを見ることについてはまだ理解していなかったので、ただ魂に集中しました。)すると頭頂からの心地よいエネルギーが意識を満たし、ほんの2,3秒でしたが苦痛の意識が心地よい意識に上書きされるということが起こりました。短い時間でしたが絶... -

では何が正しいのか
生命と奉仕もまた同義語である。生命が奉仕を体現もしくは放射しているとき、人生は神生となり、人間の意志は神の意志にその席を譲る。これが建設的な生き方である。反対に、生命が神の意志を表現できず、人間つまり物質性の意志で歪曲されるとき、その人生は無知で破壊的な生き方になる。ほとんどの病気や災難や不幸に直結するものは、神つまり生命と、その意志に対する無知に由来している。私は、「奉仕できるから生きていられる」と言う。神の意志が奉仕であり、あるいは放射であり、伝導であり、流入と流出で... -

生きる喜び
生きる目的に迷って苦しんでいる者は多い。我々は、その迷い苦しむ自己を犠牲にしたときだけ、神の目的が生きる目的であるという境地に到達するだろう。したがって、個人は至福のうちに無視されるようになるだろう。犠牲とは即至福を意味する。よって個人の目的は、神の意志と目的の顕現のために、その個人を犠牲にすることである。これだけが救済への道なのだが、依然として、我々は個人の苦境の救済を生の目的にしているのである。 前の記事だったか、鬱病の本当の苦しみを分かっていないのではないか、軽く見て... -

鬱病や生の苦痛は治るか
鬱病は治るのかという質問について。何の病気でもそうだが、罹患しているのは個人ではなかろうか。瞑想に熟練し、個人という偽の己と真の己を識別できるようになったとき、真の己はすでに至福であり、永遠に病気から無縁に美しく輝いていることを知るだろう。個人が鬱病であっても、偽我から真我へと焦点をずらすことさえできれば、病気という誤解に苦しむ必要はないのである。つまり、最初から治っている。鬱病は個人つまりマインドの自作自演にすぎなかったことを知るだろう。これだけが瞬時の治癒である。 鬱病... -

目醒めよ
私の生活はずっとひどい状態で、特に精神的には苦しみにあえぎあえぎの状態なのです。病気持ちでもあります。神智学やクリシュナムルティなどの本を読んで葛藤を統御できるだろうか、と思いましたが、そうはなりませんでした。非二元論の本も何冊も読みました。気づくことで苦しみが終わっていくと思ったのです。 気づくのはあなたではない。あなたが気づかれるのである。気づこうとしているあなたに魂として気づくことが、以前あなたの言った「気づきに気づく」の本質である。現在、あなたは一生涯だけの取るに足...

