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真の移民
「移民問題についてどう思うか」と問われた。そもそも視点が違う。逆に問うが、それは「問題」なのだろうか。誰にとって、どのような部分が問題なのだろうか。それは見ている世界、生きている世界を間違っているから巻き込まれる類いの問題ではなかろうか。私もあなたも日本国籍をこの世で持つかもしれないが、だからといって生命は日本人ではない。私もあなたも肉体の世話をしているかもしれないが、だからといって生命は肉体でもなければ人間でもない。現在まだ一部の国で推奨されているような移民政策は、いつ... -

正座
どう生きたらいいか分からない。人生の悩ましさにどう対処すべきか分からない。そのように感じさせられている自我意識に対して最近の記事は答えてきたが、「私たちは僅かばかりの楽しみがあるから生きていられるのです。奉仕できるから生きていられるという感覚は存在しないのです。仕事終わりの楽しみや週末の娯楽、個人的な希望があるから生きていられるというのが通常の人間の実態つまり事実であって、奉仕できるから生きていられるという教えは参考になるような実践的なものではありません」という趣旨の反論... -

従うべき道筋
「してやる」という錯覚について。たとえば主婦は、料理を作ってやってる、掃除をしてやってる、などと言い、旦那は旦那で自分が養ってやっている、などの感覚を持つ。これらが奉仕ではないことは明らかである。なぜなら無私ではないからだ。見返りを求めている。「してやっているのに」という不平がある。真の奉仕の場合、結果に対する執着も、結果を出したことによる報酬の要求もない。このような問題の本質は、一体性を知らぬという、その一点である。したがって、一体性の境地からでなければ純粋な奉仕は厳密... -

奉仕できるから生きていられる
人間を含めて生物とは、すべて、奉仕するから生きていられるのである。「奉仕するために生きる」ではなく、「奉仕できるから生きていられる」という、この意味の違いを識別すべきである。人間に限らず生命自体を我々が知るとき、生命エネルギーというものが、例外なく、善や正しさと呼ばれるものへ究極的には向かっており、奉仕が「生きがい」であり、奉仕だけが表現体を生かしておける理由であることを悟ることになる。 奉仕とは、一体性が前提にあって初めて可能となるものであり、それは多様な顕現の世界にあっ... -

中道
昨日、友達に瞑想を教えていたときに分かったことがある。「静かにしていても妄想が多くて瞑想になっていない」と言うのである。このような錯覚は多い。一言でこれに答えるならば、それでいい。「それは駄目だ」はあなたの解釈であり、実際は瞑想と逆行する抵抗である。妄想が出ようが関係ない。その背後に静けさは最初から在る。都会の騒がしい場所に行ったら疲れるだろう。逆に誰もいない自然に囲まれたのどかな公園のベンチやブランコに一人座るならば、静かで落ち着くだろう。その静けさの中に言いようもない... -

保守とリベラル
目に見える世界は実在ではないが、それを実在と受け入れるならば、分離を受け入れることになり、そこに避けがたく恐怖が生まれる。その分離した世界の一個人として、様々な脅威にさらされることになるだろう。霊的教師は、「その私とは誰か突き止めなさい」と言ったが、一体性を知る前に突き止めようとすることは、頭で考えることに他ならず、理論と苦痛以上のなにものも生み出さないだろう。「私は在る」という感覚と共に在ることの方が教えとしては優れているが、ある段階にさしかかるまでは、「私は在る」もま...

