この惑星周期における人間に限った進化の目的は視覚である。それは、魂と接触したときに魂からパーソナリティーへの大きな贈り物である霊的な知覚で頂点に達する。これは、引きつける愛の感覚を伝え、ものごとの性質を示し、意味の世界を明らかにし、光と知識と究極的なイルミネーションという偉大な贈り物を与えてくれる。神秘家と熱誠家と誓いを立てた弟子の目標はこのようなものである。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.374
「見る」という意味が分からない、もしくは「見ているのだが見えない」という質問について。おそらく、見ているものが違うのだろう。もし動機があるなら、実際に見ているのは動機である。例えば生きていて苦しいとする。その苦しみを見るとき、通常、人々が犯している過ちは、その苦しみから逃れたいという情緒に焦点を合わせているというものである。ただ見るためには、逃避させようとする情緒から自由でなければならない。神智学用語を使うならば、アストラル体を統御する魂の能力が必要なのである。それは、いくらか魂と接触し、魂意識を発達させつつあることを意味している。
意味の世界を明らかにすることは彼の仕事ではない。それは、弟子が魂意識を発達させるにつれて達成し解釈する。彼の仕事は、意義の世界、つまりリアリティーと本質的な真理の世界を明らかにすることである。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.382
これは、冒頭の文章が示すものをすでに達成している「受け入れ前の初心者」へのものである。初心者とは、真我を知らない自我のことである。ゆえに、この単語は自我を牽制するために有用であり、しばしばプライドという自我の弱点を突くため、彼を不快にさせたり、動揺させたりする。これによって彼が自我に偏極していることを教える。この者から見てはならないのである。自我の動きに気づくことだけが、自我を静かにさせうる。魂意識の発達に伴う顕著な特徴は、何事にも気づいているというものである。気づいていることで自動的に自我は統御される。魂は、何の価値観も主義主張もなく、単に見ている。騒いでいるのは自我だけである。ただ見ることは自然だが、見ようとすることは不自然である。そこには力みがある。その力みは何に執着しているためであろうか。自我に焦点を合わせても、彼が執着しているものによって視界は曇らされる。これら自我の一人芝居と呼びうる動きを見たとき、多少なりとも魂の目で見ることが可能になる。
「偉大な贈り物」と冒頭の文章には書いてある。というのも、この視覚は自我には革命的だからである。見ることで克服できることを知る(しかしそれは個人的な事柄にすぎない)。これまで、いかに「事実」を見ず、理想や希望や逃避といった想念や情緒だけを見てきたかを知るだろう。自我の目は見ているものが違うのである。これを頭で考えようと力むと難しくなる。解き明かそうとするものはない。自我の騒動がうるさいため、静かで平和で満ち足りた視力がかき消されている。「どうしたらいいのか」は自我の騒動である。どうする必要もない。自我は、自我として行為し、思い、話すことによってのみ養われ維持される。この逆をやればいい。自我として行為していることに気づき、自我としての思考に気づき、自我として話していることに気づくことである。これが自我を止める。
魂との接触は頭部への波動から始まる。魂とあらかた融合したならば、この波動は気にならなくなる。もはやその波動で生きているからである。自我の波動に生きることで対立していない。自我の波動とは何だろうか。自我の波動の結果が、われわれの思考と言葉と行為である。いずれの思考も言葉も行為も、それを顕現させた力は三重のパーソナリティーからのものである。肉体とアストラル体とメンタル体に条件づけられた波動の結果である。これらが、自分として「どうにかしよう」という動きを生じさせ、自我自身を養う。静かにしていられない甘やかされた子供と同じである。親の目の行き届くところでは静かだが、いざ親の監視から逃れたならば好き放題に暴走し、その自暴自棄によって自らを苦しめる。魂の目による監視が自我には必要である。見ること、見ていること、気づいていることが、甘やかされた子供にとっては最も困ることである。自我も、見るだけで止まる。見ないなら、自我で生きることになる。徹底して自我の動きに気づくこと。これが自我の目標になったときには自我の新たな養分として堕落する。こう言うと難しく感じられるが、瞑想を続けることで解決される。できるようになる。しかし、それは自我としてではないだろう。