あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。
ニサルガダッタ・マハラジ
これは最初に平和を知らないからである。平和を知ったあと、個人は副次的に平和になっていく。個人が道徳的・倫理的によくなることが生の目的ではない。それは真の目的に付随するものでしかない。とはいえ、この文章は世界の混乱の原因をそのまま解き明かすものである。たとえば、「抑止力」という詭弁が詭弁であることを通常の人間は理解できない。軍事費の増額、武器の購入、果ては核武装、これらで国家は守られると信じることは、世界の国々を見る者には現実であり事実ではないかと反論されるかもしれない。このような詭弁家はしばしばキリスト教徒を自称しているから次の言葉を持ってこよう。
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
「マタイによる福音書」5章39節
聖人の言葉を「非現実的」と言わせる詭弁的精神を解き明かさねばならない。暴力を防ぐための力と言いつつ、それは暴力を前提としている。使わないために持つ力と言いつつ、使われることを常に想定した構造である。武器を持つならば、あるいは武器が作られている限り、それはいつか使用される。実際に使用され続けている。今日も明日も。抑止力なる二重の顔から目を背けたまま、均衡のための武器などと言うが、実際は、恐怖と無知があるかぎり、いつかは害するときが来る。必ず使われる。抑止力とは、「現実」を説明する概念ではなく、「現実」から目を逸らすために高度に洗練された語であり、それが詭弁であると見抜くには、通常の社会的・心理的ポジションを離脱する必要がある。形態ではなく、それを生かしている命を自覚しなければ、事実が見えない機能は放置され続け、決して平和はない。
害するより、害される方がどれだけマシであるかが分かるだろうか。有害を選択するより、無害であることがどれだけ霊的であるか考えうるだろうか。我々は日本人ではない。我々の形態には、国籍として焼鏝が押されているかもしれないが、我々は形態ではない。しかし形態を自分と信じ執着するとき、我々は害されることを恐れ、害される前に害そう、害される前に害す準備を整えておこう、そう考える。すべては分離という錯覚をした個人の、自己中心的な、形態至上主義的な、非霊的な、したがって識別力がないゆえの、恐れという錯覚ゆえの詭弁であり、グラマーである。私が何を言おうとも、「しかし実際問題は」と言われるかもしれない。それは真我を知らぬゆえ、恐怖に制約されており、真の「実際」つまり「真実」まで上がってこれないからである。ここを切り抜けてもらいたい。平和のための武器というものは絶対にない。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出せとは、無害と無抵抗の霊的意義についてのものである。我々は、心の中で絶えず誰かを嫌っている。害された時、害した者を許せないと考える。どの平和運動に熱心な者も、心の中では戦争状態である。どの政治家も、どの平和主義者も、どの戦争反対者も、心の中では戦争中である。ニュースを見ては批判し、日常生活では対人関係で苛ついている。悪を許すなかれと言っている。おのれの中に悪があるから悪が見えるということが分からないのである。もし、真の自己が害されえぬ者、破壊されえぬ者、かき乱されぬ者、永劫不滅なる者、際限なき愛と至福である者であると知るならば、恐怖というものはない。恐れぬ者は、誰をも裁かない。あの人は悪でこの人は善だとは言わない。左は悪で右が善だとは言わない。愛に到達したとき、二元は存在せず、すべては我として愛そのものである。愛はつねにすべての一体性の認識が前提にある。したがって、一つである自己を知るならば、自己同士で害するということは不可能なのである。この意味で、無害と無抵抗に生きようと真に決意する勇気ある者は稀であるとともに、錯覚の殻を破りつつある、人類の貴重な希望である。世界の平和を求めるならば、まず、おのれが平和を知らねばならない。平和とは真我のことである。そして真我とは、対立したものが調和されたときに知られるものである。
医師が患者に注射をした後、「さあ、静かにしなさい。何もせずに、ただ静かにしなさい」と言うように、私もあなたに言っているのだ。私はあなたに注射をした。さあ、静かにしなさい。ただ、静かにしなさい。あなたはほかに何もしなくていいのだ。私のグルも同じことをした。彼は私に何かを語り、そして言ったのだ。「さあ、静かにしなさい。いつまでも思いめぐらしていてはいけない。止まりなさい。沈黙しなさい」と。
ニサルガダッタ・マハラジ
これは事実であるとしても、聞いた者は、静かにしようと「する」だろう。だから、できないと皆が言う。瞑想していても雑念や騒音だらけですと言う。しかし世の瞑想は、それらを静めることが瞑想で行われるべき義務だと説いている。もし我々が静寂と沈黙に入るならば、静かにすることとは、静かである存在と一致することであり、その一致は静かである存在が執り行うものであり、個人にできることは、せいぜい、雑念に気づいていたり、騒音に気づいたあと再び反対側の静寂に意識を引き戻すといったことだけであることを理解するだろう。内なる静寂に留まるよう、方向づけることだけである。それは内なる目と視覚に関係している。どこを見て、何を見ようとするかで、意識は変わる。内に留まるなら至福、外に彷徨い出すならば地獄、といった具合に。
魂は静寂である。沈黙の監視者である。私が錯覚していた頃、メンタル体を統御しなければならないと自我で考えていたが、それが不可能であるため、絶望的な気分だった。自身の抵抗が平和を乱していることが分からなかったのである。悪人に手向かわないように、雑念や騒音に対しても決して手向かってはならない。それらと同一化したとき、それらの勢いは増長される。ただそれに気づいており、何もしないならば、つまり無抵抗ならば、それらは、それら自体では生きられないのである。だから当時、魂は、私に対して「意識自体に意識を戻すように」と教えた。結果、それが良いものであることを理解した。簡単だし、ただ存在しているだけでいいことを理解させるには十分だった。想念が出ると、やがて自動的に意識自体に引き戻す作用が働くようになった。そしてしばらくすると、この機能もなくなり、また雑念や騒音だらけになり、何もできない状態になるのだが、それはそれで構わないという驚くべき事実を発見した。このようにして、私はおのれに対しても無害であること、無抵抗であることの意味と意義を理解した。
あらゆる「害を無そう」という気持ちが存在できる原因は、おのれに由来するカーマ・マナス的なフォースと同一化しているからである。それで、害することが正当であるというイリュージョンと、害することで安心を得ることができるというグラマーに惑わされるのである。神の意識に近づくとき、その領域が平和であること、完全にすべてが調和し一つに還っており、我において一元であることを理解する。だから次のページでマハラジはこう言った。
あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。すべてはあなたが在るがゆえに在る。この要点を深く、確実につかみなさい。そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。
ニサルガダッタ・マハラジ
この一なる原因を理解したとき、初めて平和を我々は理解できる。また錯覚が何であったかも理解できる。この世の言葉でいえば、すべてはエネルギーだが、顕現や表現の仕方・在り方として、エネルギーではあるが純粋なエネルギーが誤用された状態にあるフォースと呼ばれる別の力、神のエネルギーに完全に逆行しようとする力が存在し、平和を害しているのである。神と悪魔の喩えはここから来ている。霊と物質という表現の対立もこの内的争いの結果である。ホワイト・ロッジとブラック・ロッジの話も、どのエネルギーつまりフォースに条件づけられているかの違いである。進化と退化もこの違いである。この対立を可能にさせているのは、実際は我々である。真実は、実在ではない力に我々が力を与えているため存在と対立が可能になっているだけで、錯覚を錯覚と見抜いたとき、霊的なエネルギーに対抗しうる力というものは存在しないのである。このとき、何が実在で、何が非実在であるかが分かるだろう。
実在とは、命のことである。生命は、前回の記事で引用したような魂意識をさらに超越したものである。魂意識は神のパーソナリティーの一つと呼ぶべきブッディ生命の範囲内にあるゆえ、美と至福と平和を感じることができるが、まだそこに感じる者が存在している。あるいは感覚が存在している。命は、感覚を知覚する意識とは別次元のものである。そのレベルの霊的至福すら、命という実在に至るときには脱ぎ捨てられるものである。そこまで遡ったものを言葉にしようものなら、不可能であり、その状態に入ってまた書けなくなる上、話の本筋からさらにずれ行くためある程度は戻さねばならない。これらは、それなりの段階に入ればやがて理解することであるが、その「それなりの段階」への近づき方が分からず迷っている(肉の意味ではない)兄弟姉妹に、なんとしてでも仕え、そのメンタル的な錯覚を、あるいはアストラル的な錯覚を乗り越えさせる助力になりたいという意志だけで書き続けている。なぜなら、真の宝を発見したとしても、その宝が真に輝き生まれ変わるためには、すべての血を分けた兄弟たちが、この源である宝に帰りつかねば何の意味もないからである。この世の宝なら、独り占めすることも可能であろう。しかし神という一元の宝箱は、全員で開かれたときのみしか真の意味では開けないし、全員がそこにいなければ分かち合うこともできないのである。これは惑星の宝の話である。地球は、太陽系の中でも特に進歩が遅れた星である。進歩の足を引きずっている退化の力とは何なのか。それを各々が自身の内に見つけることができ、また退化を進化へ引き戻す力もおのがうちに備わっていることに目をみはり、驚嘆すべきである。この世では不真面目でもよいだろうが、真の目的である霊的価値に対しては真剣でなければならない。これほど有意義なことなどありはしない。そのためには、正しい瞑想の積み重ねにより、日々、内なる師である魂から沈黙の教えを学びつづけるしかない。すると、多くの方が高位の意識を求めているが、重要なのはそのような意識ではなく、その意識によって理解されるもの、我々の神である惑星ロゴスの計画と目的であることが、その方の中で分かるようになるだろう。人間の生の目的が、神の目的に入れ替わるだろう。すると、なぜ高位の段階の者が我々の物質界で活動していないのか、舞台裏でなければならないのかが、原因の世界の理解の中で分かるだろう。真の平和運動は、我々の世界にではなく、その背後の世界に存在するものである。これをみなで発見しようではないか。発見する先は、我自身である。我を見ること、我を知ること、そして我として在ることである。だから、「汝自身を知れ」はまことに箴言であったし、震源を直に指し示すものであった。
