弟子がひとたび魂の意識をもって生活し、(このような表現が許されるならば)あの「高所」に随意に達することができるならば、形態性質の浮沈が彼に影響を与えることはなくなる。そのとき彼は、物質生活の界層から魂の領域へと続く狭い諸刃の剣の道に気づき、もしその道を着実に辿るならば、その道は変幻極まりない感覚の世界から、明るい日光の中へと、リアリティーの世界へと彼を導くことを発見する。
そのとき、生命の形態面は彼にとって単に奉仕の領域になり、感覚的な知覚の領域ではなくなる。この最後の文章を熟考し、魂として生きることを目指しなさい。そうすることで、魂から放射されている周期的な刺激の責任は自分自身にあり、それが自身が送り出したものであることが分かる。そして、彼は自身がその原因であることを知り、結果に支配されなくなる。
ジュワル・クール「ホワイト・マジック 上」p.87
失敗する探求者は、感覚的な知覚を求めている。感覚的な上がり下がりに揺さぶられず、その中央の不動なる道を発見し、感覚知覚を拒絶しつつ黙して辿る者だけが、信じられぬばかりの「高所」を発見する。これは意識の問題である。我々がどこにいようが、どのような状態であろうが、眉間を通して意識を「高所」に集中するならば、この現象の世界からは隔絶され、自由となり、自身が分離した肉体人間ではなく一箇の魂であることを理解し、言葉ではいい表しえぬ境地へ意識が引き去らわれることを確認するであろう。
弟子は、この「高所」を知っており、「高所」から働く者である。したがって強く、この世のものに影響を受けない。それはたやすく無効化することが可能である。今日は腰をとつぜん痛めたと主張する者に「痛くない」ことを多少理解させた。極度の痛みは除くが、ほとんどの痛みは「高所」から無効化できる。どのくらい無効化できるかは、その者の進化段階つまり意識段階に依存する。「痛い」とは、痛みからの逃避である。ほんとうに痛いのだろうか。「高所」から意識を痛みに向けたとき、痛みは感じられなくなるだろう。より強い痛みの場合は、痛みの知覚はあっても、耐えられるものになるだろうし、本質的に痛みと自身が無関係であることを理解するだろう。また治療できるようになるであろう。
魂のエネルギーの伝導体にすでになっているような高度に進化した器を持つ読者方は、あらゆる痛みに対し、眉間から痛みの対象そのもの、つまり感覚そのものを見て、その痛みが瞬時に消え去ることを確認すべきである。また、このような応用に慣れたならば、「他人」の痛みの箇所も、意識からすれば我が内なのだから、他人の痛みの箇所に意識を差し向け、魂のエネルギーを伝導し、その者の意識から痛みを無効化することが可能であることも発見しなければならない。しかし、普通の人たちは、痛いものであると決めている。弟子には、痛みであれ何であれ、感覚知覚そのものを魂の目で見る技術が求められている。そうすることでのみ、あらゆる対象化されたものは一なる我において抹消され、非実在であることが知られるであろう。
ところが、平均的な探求者は、まだむしろ感覚知覚をあえて求めている。これは責められないが、乗り越えなければならない。我々は魂であり、感覚知覚で遊ぶ子供ではない。それらを超越しなければならない。どのような感覚知覚であっても、「高所」からその錯覚を無効化し、感覚を味わうために存在しているわけではないことを思い出す必要がある。さらに進歩したとき、霊的な至福のような高位の感覚知覚さえ否定されねばならないときが来るだろう。それが足かせであることを見出すようにさえなるだろう。しかし、我々の当面の敵すなわち自身の無知の反映は、アストラル的な感覚知覚である。より進歩している者は、肉体的な感覚知覚にも応用し、自身が肉体を超越していることを早めに確認すべきである。なぜなら我々は魂だからである。
とはいえ、この現代において、自身が魂であることを理解し、「高所」に生き、「高所」から物事を眺め、統御し生きている者は滅多に存在していない。魂のエネルギーの伝導体になっている者ですら稀である。したがって、そのような方々は、相対的にではあるが自身が極めて進歩していることを自覚し、流入するエネルギーを適切に――奉仕というかたちで――流出する責任があることを自覚せねばならない。もしそうでなければ、ジュワル・クールの言葉を借りるならば、「人生の破綻をもたらすことになる」。ここには何も恐れる要素はないが、瞑想し、自身に何ができるのかを「高所」の知恵と直観の領域から確認し、人間としてではなく、魂としてこの世界で出来ることを見つけ出すといいだろう。それが喜びをあなた方にもたらすことを知るだろう。流出の喜びを知るだろう。
平均的な人間は、たとえば男性ならば、下半身から精子になったエネルギーを流出することを悦びだと思っている。このような計画倒れを続けるならば、前立腺など、そのあたりの病気に自身でしてしまうことが多々あるゆえ気をつけてもらいたい。間違った箇所で流出するとき、その箇所の病気になりやすいことを覚えておくべきである。たとえば人の悪口や批判ばかり言う者は、喉あたりの病気になるかもしれず、愛ではなく怒りで流出しやすい者は、ハートつまり人体でいえば心臓あたりの病気になりやすいことを覚えておくべきである。――つまり、流出には責任が伴うという事実に再び目を向け直すべきである。我々において正しい流出とは何か。これを自ら見出す必要があるだろう。
もし正しい流出である場合、それは愛や喜びと直結することを知るだろう。そのような高位のエネルギーが我と我が身を包むことを知るだろう。自分のためではなく、本当に兄弟姉妹のために行われる善意は、必ずその者を解放する力を呼び込むものである。お互いに金儲けし合うことが「Win-Win」ではない。真の互いのメリットとは、互いに進歩し合うことである。奉仕する者はそれだけ進歩する。しかし彼らが喜んで奉仕をするのは、奉仕が喜びだからである。不足しているところに愛や善を供給することで助け合うことが喜びだからそうするのである。これが分かるならば、真に考え理解し分かるならば、人類はもっと飛躍的に向上することが可能である。
おのれの感覚知覚のために生きる愚か者であってはならない。それらは「高所」から無効化されるべきものでしかない。そうすることで、無効化された暗黒の彼方に光の道を見出すことができる。多くの者にとってこれは盲点である。彼らは感覚知覚に生きているが、それを魂の位置から統御し、無効化するという技とその意義を見出し覚えるならば、すでに我が内に道は作られていることを理解するだろう。そこから「高所」に意識は貫通できる。眉間の上あたり、ちょうどヒンズー教の女性がしばしば赤色のビンディーをつけている所か、それよりもちょっと上あたりから「高所」に入ることが可能である。そこは感覚知覚の世界ではもはやない。それを超越した領域である。日常から常に気をつけてそこへ意識を置き、物質界ではそこから活動する習慣をつけることが肝要である。そうすることで、周囲の人間たちが味わっている感覚の世界を通り抜け、それらの世界を意識しながらなおその世界を超越している意識で生きれるようになるであろう。このような話を普通の人は信じていないが、あなた方は事実として確認すべきである。
