いわゆる悪の華

ぼちぼち忘年会を始めているのですが、行く前は「嫌だなぁ」という気持ちです。そして周りに合わせる程度にお酒を飲んでいると、ついつい楽しくなってきて、強いお酒を人一倍飲んでしまい、翌日はとても苦しい二日酔いを体験することになります。何と言うか、うつ病のような気分に落ち込んでしまうのです。あなたは以前の記事で、二日酔いのようなものは簡単に治療できると書いていた記憶があるのですが、どうすればいいのか私に理解できるように教えてください。

二つの方法がある。二日酔いの苦痛を味わわせている物質を特定して破壊する方法。もう一つは、二日酔いやそのような物質がそもそも存在していないことを見出す方法である。前者は物質の存在をあらかじめ認めた上で破壊を行う。後者は、存在自体を疑い、それが実在ではないことを知るものである。前者は存在を認めるがゆえ、破壊には時間がかかる。魂のエネルギーをひたすら対象に照射することになるが、これは低い段階の方法である。前者は集中を扱うため瞑想に属しており、後者はその上位の観照を意味している。前者はマインドと魂で行われ、後者は魂と霊つまりモナドに関係している。後者のみが本質であり、真の力であり知恵である。

後者は私にできるのでしょうか。

できる。あなたに必要なのは、その力を妨げているものが何かを知ることである。例えば、二日酔いの苦しみから逃れたいという動機が少しでもあるならば、霊的な方法はすべて失敗する。あなたが体験するのは依然として存在する苦痛になるだろう。瞑想とは、逃避ではなく直面である。二日酔いの感覚を抱えたまま瞑想し、その苦痛の感覚を見ながら、「それは本当に存在するのか」と問うべきである。次の瞬間、偽りは暴かれ、非実在は実在に席を譲り、あなたはついさっきまで二日酔いだったかもしれないが、それは治癒され、途方もない美と喜びに導かれるだろう。何も存在していなかったのである。言い換えれば、存在とは、あなたの決定である。存在させたのは想念の力である。

ちょっと待ってください。「二日酔いの苦しみから逃れたいという動機」はあります。それがあるから質問しているのです……。

あってもいい。しかし、あることに気づいているだろうか。動機自体に気づいたならば、つまりその動機を見たならば、それは消えるはずである。動機は、常に或る対象から別のより良い対象へと移行させようとする無知である。目はどこを見ているのか。いま在るものを見ることが知恵である。いま在るものが無いことをその知恵が教えるのである。

その知恵はどこから来るのでしょうか。勝手に出てくる内在の知恵でしょうか。

最初から備わっている真のあなたに由来する光である。光と知恵は同義語であり、これを知るとき、あなたは光であると同時に、すべてが光であることをあなたは発見する。「何かが在る」とあなたが認めるとき、あなたと対象という二元に堕落する。光は暗黒によって追放される。「何かが在る」とは、低位マインドに自縛されているときの恐るべき錯覚である。頭の良い人は頭を鍛えているが、瞑想者は、一切頭で考えることはない。具体化されたもの、命名によって概念化されたもの、つまり存在させられた結果を瞑想者は扱わない。頭ではなく目でありなさい。考えるのではなく観照しなさい。何かをするのではなく、ただ在りなさい。これらが教えである。

想念はあります。考えないようにしても考えてしまいます。

それで問題ない。多少の想念があっても、二日酔い程度の非実在を消し去る意識に入ることは可能である。ただ、真に実在でありうるのは想念がないときである。あなたに想念があっても、想念と想念の合間にその意識にあなたは入っていることを認識できるだろうか。内在の幸福感があるとき、それは想念がない瞬間である。次の想念が生まれたとき、その幸福は即時に失われる。ここを自覚し、想念が一瞬でもないときの「われみずから」に焦点化することが肝要である。想念はあってもいい。想念と想念の合間の、その実在に意識を差し向ける習慣が大切なのである。やがて、その合間であるものが拡大し、すべてを飲み込むのである。

整理したいのですが、二日酔いを治すことは今の私には難しいようです。

難しい理由は、「今の私」への愛着ゆえではないだろうか。なぜ真我ではなく偽我を好むのだろうか。「今の私」を自分と思うのではなく、「今の私」をただ見てほしい。「今の私」でもよいから、「今の私」でただ在ってほしい。全くの無抵抗が鍵である。このとき静かではないだろうか。二日酔いでもいい。ただし、本当に二日酔いなどあるのだろうか。その存在を疑う目が欲しいのである。決して頭で考えず、また二日酔いに対する何の意見も好き嫌いも持たず、ただ、それがあるのかどうかを見るならば、瞬時にあなたの意識は天に昇る。全く抵抗しないとき、あなたは何に対しても力を与えることはなく、したがって自存であるものへと導かれるのである。

私は抵抗だらけです。二日酔いに抵抗します。二日酔いでない状態に戻りたいと抵抗します。

動き自体は何ら問題ではない。動き自体に参画することが問題であり、動き自体を見ないことが無限の輪廻を回転させている。輪廻はある側面からの解釈であり、まったく事実ではない。あなたが、そのあなたを見ない結果、別のものを求めるという動きに終始惑わされ、AからB、BからXという止むことのない無知が、絶対に現在を見させないのである。なぜなら、動きを止めてしまうと、あなたは死んでしまうからである。自我はみずからが死ぬのを恐れている。精神と心理の深いところで、あなたはこの自作自演について知っている。ここは熟考に値する。あなたは問題を終わらせる方法を実際は知っているが、実のところ、問題自体が好きであるため、常に問題を言い訳にし、常にAからBを志向している。これが輪廻の正体である。もしAにとどまるならば、あなたの世界は消滅する。あなたの常識も、あなたにとって事実であったことも、すべて真理に席を譲る。この単純さ、素朴さ、純粋さを嫌い、別のものへと絶えず移行させる力とはなんだろうか。それはあなたがいま宿っており、束縛されている物質に備わる力である。この力を、世の中では悪と呼んでいるのである。

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