すべての一体性について

「人類と私は同じ意味である」とか、「世界と私は同義語である」とか言うとき、周囲の木々や、樹皮や、生えているキノコや、あるいはそれらを照らす太陽など、すべてを自分と感じている状態なのかと聞いてくる者がいる。今述べられた形態の側面は、人間の意識においては存在だとみなされているが、私はそれらを存在と見ておらず、ただ表現と見ており、その表現を可能にさせているフォースがどのようなものであれ、フォースはエネルギーであり、すべてに浸透する自由で純粋なエネルギーつまり生命が私だと言っているのであり、見える形態の背後であろうが、見えない真空の背後であろうが、その背後の生命が私である、という深いレベルにおける一体性というよりも同一性について言っているのである。

森羅万象という形態側面は、我々の意識の中に見受けられるものでしかない。私自身は、そのような無限の表現体に関心がなく、その背後のエネルギー生命として一つであることを認識している状態である。認識しているとは、私であると感じるという意味である。それは、厳密に言い換えれば、私なのである。この唯一なる源のことを私は私と言っており、形態側面は見えていても無視されている。

もし私が木や花など特定の形態に限定して私と感じるならば、それは人間の自我意識と同じように苦痛である。森羅万象は私の意識内に見られる比較的無意味な表現であり、それらすべての根源であるものだけが実在――常に実際に存在する名づけがたい普遍的源である。これが真我である。それはラマナ・マハルシが主張するように、人間の場合はハートで感じられる。ついでになぜかを説明しよう。

しばしば、低レベルな本に影響を受けた者が、魂と肉体が「シルバーコード」で繋がっていると言うが、オカルト的にはそれはスートラートマと呼ばれており、それはいわば二つの糸で構成されている。我々が瞑想などの手段で意識を肉体から抽出したり、あるいは睡眠で一時的に撤退するときに使用するのが、頭部に固定されているアンターカラナつまり意識の原理となる糸である。痴呆や植物状態などの者は、二つのうちこの意識の糸だけが引き上げられている。一方、心臓に固定されている糸は、その者を生きて存在させるエネルギーを流すものであり、生命原理の糸である。これは、唯一なる源から森羅万象の形態へと流れる生命エネルギーの流れを伝える器官であり、専門的に言い換えると、モナドからパーソナリティーへと、魂を経由して流れているものである。ゆえに、生命的な一体性(同一性)を感じる箇所はハートなのである。ついでに言うと、この二つの糸が引き上げられたとき、人つまり形態は死に至る。

しかし、これらは現象的な、つまり形態的な側面における解剖学であり、高位我と連結させるアンターカラナを構築した高位の意識においては、生命的な意味で、単にすべてが私であるだけである。「すべて」と言いはするが、そこでは私が在るだけである。

では、この話と進化段階という概念はどのように整合性をもたせることができるであろうか。進化段階は、意識の糸つまりアンターカラナと関係している。偽物ではなく本物へと集中するようになることで、この糸はいわば首尾よく構築される。指針として言い換えると、自身が見出した最高点、意識的なTensionの点に集中すること、意識を固定化させることで、アンターカラナは構築される。これは、分かる人にのみ伝わる技術論である。一方で、普遍性や一体性、つまりすべてが我であるという同一性を認識させるのは、アンターカラナが低位マインドと高位マインドを繋いた後の意識、マインドを超えた意識に啓示されるスートラートマを介したモナドの生命様相と関係している。生命という根源にはいかなる差異も高低も進化段階もない。ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジはこの根源について語っている。見落とされているのは、高位の個人性つまり意識性、つまり何らかのレベルでの個別のアイデンティティーについてである。この側面を見るとき、意識のレベルの差が存在する。それは大人と子供も共に生命だが、意識のレベルは異なるのと同じことである。関連するものを引用しておこう。

確実なことが一つある。それはアイデンティティーは常に存続するということである。例を挙げて説明しよう。私たち一人ひとりは進化の過程において天人方の一人の部分を形成している。天人方自身は、より偉大な天人であるロゴスの七つのセンターを形成している。私たちは全体に溶け込んでいるが、それでも自分のアイデンティティーは失っておらず、生きとし生けるものと一つではあるが、分離した意識単位であり続ける。同じように、私たちのロゴスも、たとえシリウスのロゴスの意識の一部であっても、そのアイデンティティーを失うことはない。さらにシリウスのロゴスは七人の壮大な天人方の一人であり、この天人方は、その方については何も述べることが許されない方のセンターになっている。

アリス・ベイリー「宇宙の火2」p.288

啓示と学びは無限である。真我を実現したら終わりだとか完成だとか思われているが、それは超人――つまり鉱物、植物、動物、人間という進化における意識レベルの順序があるとして、この話で言えば、その次の霊的領域、第五番目の王国における学びの始まりを意味しているにすぎない。ゆえに、道を辿ることが出来るようになる前に、道そのものにならなければならないのである。したがって、どの教えが事実なのかを人は気にするが、どの観点からの教えなのかをその前に我々は識別すべきである。

話を戻すと、誰がどの形態について語ろうとも、その形態はどうでもよく、形態の背後の実在と私が同じだということを、アンターカラナを構築させた意識においては通常の、自明の認識であるということを私は言っている。我々が「一体性」の概念を思い描くとき、形態を見て、どの形態とも一体なのか、と推測している。私は形態は無視している。どの形態であれ、その背後の実在が私だと言っているのである。神が自らが創造したものに無関心であるように、より神性の意識に近づくにつれ、自身が人間形態であると思っていた者もまた、形態様相には関心がなくなるのである。錯覚に気づいた後、錯覚にのめり込む者はいない。この永遠なるリアリティーで在ることが悟りだと言われていることは、誠に遺憾である。我々はそれを、何かしら超常的な、驚異的な、ありうべからざることだと思っている。たとえば、ニサルガダッタ・マハラジがこの悟りに至った後、周囲のほとんどの者はそれに気づかなかったか、信じなかった。「あんな騒がしく怒りっぽい者が聖人だって?」といって笑われもしたろう。彼らはアメリカでマハラジの本が売れた後に態度を変えた。キリストですら、「預言者は誰も、自分の故郷では歓迎も尊敬もされない」と言っている。これらはすべて、特別な者が存在するという錯覚から来ている。近しい者が、その特別な者であるはずがないし、特別性を示す根拠に乏しいことを我々は知っていると主張するのである。このようにして、誰もが、自分は非神聖で、特別な者だけが神聖であるという自我の逃げ口上をがっちり自らの懐に隠し持っている。そして、神の到来や再臨を待ち望んでいる。現れた神には、アンチキリストの汚名が着せられる。お前が神であるはずがないと言う。このような意識段階を、無知と言う。

目次