そのまま

我々が真我を求めるとき、我々は真我を否定している。我々が「こうあらねばならない」と言うとき、真我を否定している。我々が自身の行為に駆り立てられるとき、真我の輝きを押し込めている。我々における大いなる無知の一つは、そのままで良いことを知らないことである。そのままであるとき、我々の生は嬉しいものになる。生きる価値のあるものになる。生きていることが喜ばしいことに気づく。我々を、そのままから動かし、そのままを否定しようとする衝動は、すべて惑わしである。そのままは、記憶から自由である。過去から自由である。未来や希望や理想から自由である。時間から自由である。そのままで在るとき、いかなる所有や執着からも自由である。

「私は自我意識だが、そのままで良いのか」と問われるかもしれない。それは、”そのまま”に起こった想念でしかない。そのままは、いかなる想念とも交わらないことで、そのままで在るだろう。どのような想念も所有しないだろう。どのような意見にも賛同しないだろう。このような、偽りの排他によって、真我を否定しないだろう。

真我は、自我にいじめられている。そのため、引きこもっている。存在感を失っている。光を無効化されている。自我もまた、自身という錯覚に衝動づけられ動かされている。自我は、自身に固有の力にいじめられている。不当にこき使われている。そのような力に動かされるのではなく、その力を見るならば、真我が輝きを取り戻し、その自我という暴走する力を支配しにかかるだろう。自我は牢獄ではなく王国になるだろう。自我は地獄ではなく天国になるだろう。自我は嫌がられるものではなく、そもそも存在していない錯覚として、乗り越えられ、そのままを啓示するだろう。

物心ついたときから、何かになる必要があると我々は教えられる。これを、我々は死刑宣告と呼んでいる。我々が親ならば、子を立派に育てたいと願い、自身の願望を押し付けることで、子供を”そのまま”に対してめくらにしたいのか、考えねばならない。有名大学へ送り込もうとすることで馬鹿や迷子を押し付けるのか、それとも、内なる天才にとどまらせるのか、考えねばならない。言うことを聞く良い息子、従順な娘に躾けようとすることで、そのままのお前であってはならないのだと、暗に子を否定し続けることが、どれほどの罪であるのか、考えねばならない。指導という名のもとで、真我は否定され続けている。

しばらく前のニュースで、小一の子供たちにいま流行っている遊びが紹介されていた。「それってあなたの感想ですよね、はい論破」と親に言う遊びである。このような子供が六歳として、すでにこの六歳は死んでいる。誰が殺したのか、考えねばならない。どう虐げられたらここまで傷ついた六歳になるのか、考えねばならない。親が真我を知っているならば、このような子供にはならない。親と子という見方がすでに間違っているのである。親が誤った自分に生きているがゆえに、子を最初から分離して見て、自分の幸福の道具にしようと考えるのである。分離意識で生きている親は、決して子を愛せない。子という形態の背後の生命とともに全一体として輝くことは決してできない。目で見た通りに見て、見た通りに頭で考えて、分離意外の何を教えうるだろうか。一なるもの、そのままであるものとして、我々は共に愛し合い、喜び合いたいのである。家庭や親子の不和は、おのれの心の不和でしかないことを、見抜いてもらいたい。

見ているものは、そのまま我々である。見る者があるから見られるもがあり、そこにはいかなる分離もない。我々は、互いに共通の世界を見ることができるが、自我の見る世界と、真我の見る世界は、同じものでも違うことになる。見方や視点が違うのは、在り方の違いでしかない。ここに気づき、見る自分や見られる他人といった錯覚から自由であるため、なんであれ真我の上に専有せず、そのままを大切にしたい。なんであれ、そのままでないものと交わるならば、交わる者もまた錯覚へと堕落するのである。目をつむり、どんな惑わしをも閉ざし、ひいては自身とも無関係になることで、自我ではなく真我を知らねばならない。途方もないものを内に知るとともに、そのままで良かったことを知るだろう。これが不動明王ではなかろうか。そう言いつつ、不動明王が何なのか知らないためにいま検索したならば、出てくる仏像が、どれもこれも、いわば今の小一の子供のような顔つき、姿かたちであるのは、何ゆえなのか。誰が彫っても不動明王なるものの顔かたちはあのようになるのだろうか。ウィキペディアを見た。「煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている」と書いてある。雷を見て、神の怒りだと解釈し恐れる原始的な人間をなにかしら思い起こさせるものがある。

そもそも愛は、彫る必要がない。そもそも仏は、すでに人間として神が彫っている。万物として神が表現している。つまるところ、そのままで良いのではなかろうか。

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