金縛りが夢の中で現実であるとき、われわれは必死にもがくだろう。抜け出すべく抵抗するが、声もでなければ動くこともできない。しかし、それが夢の中であることに気づくならば、われわれはただ金縛りの状態の中に入りゆくことで、即時に解除できることを知る。気づかぬならば、長時間の金縛りは恐怖である。だが気づいてさえいれば、それが夢であり、金縛りにすぎぬことを知り、一切の抵抗を止め、その中へ入るだけである。すると解ける。瞑想もこれに似ているのである。
この世界もまた夢と知るならば、それに気づくならば、われわれは抵抗しなくなるだろう。われわれ自身が夢の中の金縛りであることを知るならば、努力したり、何かから逃れようともがいたりすることで、精神に縛られた自我感覚や、逃れたい何らかの対象を強めることもしないだろう。苦しみや恐れから逃れようとしたり、自分で作り上げた霊的な目標へ向かって抗うこともなくなるだろう。対象はわれわれ自身である。受け入れようとするのでもなく、逃れたいと思っている当の対象にただ入りゆくだけである。すると、即時に恐れていたもの、克服すべきと思われたものは無くなるのである。対象から自由になるのである。
われわれの目標は、われわれが作り出したものである。それは手製の新たな檻である。新たな苦痛の種である。神は、どこかへ行けとは言っていない。われわれは欲望と恐怖にしがみつき、何かを欲しがっている。神は、達成せよ、到達せよ、獲得せよ、苦闘せよ、とは言っていない。あるがままの私が、はたして難しいことなのだろうか。探究しているもの、到達しようとしている何かとは、私自身である。実在の痕跡は、われわれが存在しているというこの感覚にある。すべては、自分である精神が作り上げた夢であることを知り、その作者である自分のなかへ入ってゆくことである。