その方については何も語ることのできないお方

結局のところ、魂が啓示するものは霊つまり生命である。我々が存在していると見なす全てのものに内在し、その存在を(一つの側面ないしは観点から)可能ならしめているものは、唯一にして普遍的な生命である。我々は高次の意識に興味を抱いているかもしれないが、どのような意識であれ、その背後にあるのは生命である。意識は第二様相であり、それは形態つまり第三様相との相互作用に基づくものであり、したがって原初ではない。意識は原因ではなく結果であり、つまり第一様相と第三様相の結果であり、しかし全ての様相の原因であるものが生命である。生命のみが実在であり、その他は、すべて生命の多様な表現であり、表現は意識のレベルによって存在したりしなかったりする仮象であり、実際の存在ではない。言い換えれば、実際に生きているものではない。

物質自体は生きていない。どのような形態にも生命が内在する。聖書が「その中で生き、動き、存在するもの」と呼ぶ生命だけが実体であり実在であり実相である。われわれの意識が意識自体に落ち着くとき、すべてのものを生かし、すべての流れを流し、すべての活動や表現を可能ならしめている原因を持たない原因に意識は極まる。例えば、ある進化段階つまり感応しうる諸体の振動率が達成されたとき、人は魂を知覚し、I AM THAT(私はそれである)を知るが、それはマインドが魂を知覚しているのであり、IとTHATは融合しなければならず、つまり二が一になるとき、知られるのはすべての原因である生命である。生命が存在しているだけであり、重要なのは意識ではなく生命である。

われわれはエネルギーと言うが、エネルギーと呼ぶためには、エネルギーの知覚と、知覚されるエネルギーという分離がなければならない。そのような決めつけは、マインドを通した知覚によるもの、つまり抵抗の結果であり、エネルギー自体は知覚や抵抗の領域にはない。つまり生命は知覚されえない。抵抗は生命を教えない。あるいは、真我は体験されえない。生命は限定されえない。それは無限にして不可知である。

瞑想は、肉体人間(第三様相)を魂(第二様相)に接触させ、それにより霊つまり生命(第一様相)に到達させるものである。このような分類すべての背後にあり、それらを統括し、それらの原因である一なる生命を人々は真我と呼ぶ。人が魂を知るとき、人の生つまり人生は愛と喜びに変わる。魂になった人間が愛と喜びを超えて知るのは生命であり、それは至福である。変化するものは不死ではなく、永遠でもない。実相だけが不変であり、普遍であり、この先はどのようにしても描写不能にあたる。文章や言語は生命自体と全く関係がないゆえ、真我は研究によって妨害されることはあっても到達されることはない。知識とは常に無知の産物である。したがって、「私は知っている」よりも「私は知らない」が生命である。知らないこと、思考を通さないこと、マインドと関わらないこと、これが瞑想であり、マインドの統御によってのみ、知るものと知られるものの超越が可能になる。

人間は、最初に自分を主体と見なす。次に魂を知り、自身を客体と見なすようになる。次に、主体と客体は同一のものになる。この同一性がどれほど完全かによって、主体と客体が乗り越えられた真の原因に吸収されうるかが決まる。魂が二次的であり、本質においてイリュージョンであることを覚えておかねばならない。どのようなものも、それなしには存在できない何か、「その方については決して語ってはならないお方」の表現であり、仮象である。

目次