どうしても許せない人物

瞑想中の幸福を瞑想後に維持できません。目を瞑っている時の幸福が、目を開けたら不幸に変わるのはなぜでしょうか。

存在しない重荷を背負っているという想念が、世界を見ることで発生するからである。つまり、見える自分、感じる自分、記憶の自分が本物の自分だという、行為者の感覚に敗北するのである。目をつむると、世界は存在せず、内なる感覚に容易に焦点化できるため、あなたはただ幸福なのである。

目を開けたまま、行為者の感覚を消すコツのようなものはありますか。

内的な通路やメカニズムと関係している。眉間の上部に”隠遁”可能な意識の居留地がやがて発見されるだろう(それは瞑想中にあなたが幸福の源と感じる部分である)。目を開けても、目を上向きにさせることなく、その霊的中心へ意識を置いておく訓練が多少必要である。分かりにくいなら、目をつむっているときの意識の箇所を認識したまま目を開ければその場所は理解されるが、目を開けると、どうしても目が下におりて、世界を見てしまうため、見られているものと同一化してしまうのである。目を開けていても、すぐに意識を眉間の上部の魂の玉座に引き戻す必要がある。すると、誰が力か分かるだろう。力自体が行為者である。

ただし、目を開けた世界では、私は不幸です。主に、お金のトラブルで悩んでいます。また、私だけが頑張っているのに、という感覚が強く、無意識に周囲の努力しない人間を責めている自分がいます。そうしながら、一日の大半を目を開けて生活せざるをえず、深い瞑想時に感じられる幸福のままでいることはできません。

あなたの幾つかのカルマが精算されるとき、その仕事をしなくてよくなるだろうが、それまでは義務を果たすことが霊的な職務であり、そこがあなたの訓練地帯である。推奨したいのは、こまめに、数秒でいいから目をつむり、魂の幸福で平和な意識へ入ることである。苦しみが襲ってきたり、誰かを批判したい誘惑に駆られるときなど、五秒でもいいから目をつむり、それら低位我の葛藤が何も感じられなくなるまで、魂の意識にとどまり、自分が何者であったかを思い出す習慣が助けになるはずである。

私は終始、怒っていると思います。表には出しませんが、周囲への不満をこらえて生きています。他人を変えようとしても無理なのは分かっていますが、他人の思いやりのなさに胸が押しつぶされそうになります。自分勝手な人や、自分だけ努力せず不平不満をぶつけてくる人たちを、許せないと思ってしまうのです。だから定期的に目を瞑ろうとするならば、私は一秒置きに目を瞑らないといけなくなります。これは仕事中にはできません。よって、基本的に私は他人を責める気持ちを維持したまま仕事をしており、そのような自分にも大変な嫌気を覚えています。

瞑想中、その嫌気がさすような自分や他人のことはどうなるだろうか。

意識の外に追いやられ、私はとても幸福です。

ならば怒りや嫌気は錯覚だったのである。もしくは情緒的な想念というだけである。あなたは、アストラル界のグラマーに圧倒されている。瞑想の意識に入り、それらが追いやられた事実を思い出し、低位我の性質がどうであれ、考え込んだり注目を向けたりしないようにして、できるときでいいから、目をつむって魂の意識に入り、すべてが美しく、完全であると言えるまで、魂の果実を味わうべきである。

しかし、実際の私の環境は変わりません。どうしても許せない人物さえいます。なぜならずっと私を攻撃してくるからです。

そのようなカルマを甘受すべきである。あなたが瞑想時に幸福なのは、魂と整列し、魂の波動領域に恩恵を受けたからである。あなたの幸福が結果であり、原因が内なる至高のエネルギーであるように、世界の被造物だけでなく、起きることにもまた原因がある。それは、あるエネルギーの流れが外的に顯現しただけである。出来事という結果を見るのではなく、それを引き起こしているフォースの流れを見て、それに働きかけるべきである。誰かがあなたを攻撃するのならば、その者を攻撃に駆り立てている力そのものに、あなたの魂のエネルギーを愛の意識から送信するのである。だから、結果の世界で攻撃に攻撃で応じることは絶対にせず、攻撃を受けるというそのカルマを(なぜならすべての出来事は大であれ小であれ原因と結果の法則に従っているから)、結果の世界で反応せず、エネルギーやフォースといった原因の世界で対処するすべを見出さねばならない。あなたがこれに成功するならば、あなたの環境は変わるだろう。あなたが失敗し続けるならば、環境は変わらないだろう。

出来事の背後のフォースに働きかけるとは、具体的にどうすることを指しているのですか。そのレベルの話は私は全く理解できないため、無理だと思われます。

ならばまず、他人のあなたへの攻撃が、偶然起きているものではないことを認める必要がある。それは起こる必要があって、法則のなかで起きている。法則に低位我でどうこうしようと抵抗しないことが秘訣である。法則には法則で応対するというのが極意である。あなたの瞑想意識に入り、攻撃を何とも感じない意識に入り、その意識から攻撃者を見てもらいたい。どれほど融合しているかで変わるが、まだ一体感に入れない場合、分離して見ることになるだろうが、それでもなお、魂の意識から、あなたは攻撃者を憎みたくても憎めないと思うのである。そこには愛がないだろうか。もし愛を感じることができるなら、その愛の波動を、迫害してくる兄弟姉妹に送り、愛という媒介を通してつながってもらいたい。人間とは愛を表現する生き物である。あなたの瞑想が進展するほど、あなたは攻撃を受けている自分のことより、攻撃してくる兄弟の方が重要になるだろう。このとき、あなたの態度は、たとえ何をされても愛である。誰も愛には勝てない。このようにしてあなたは愛の強さ偉大さを知り、愛に生きるという極めて稀な秘伝を体得するのである。

「太陽のハート」から放射されているというエネルギーについて詳しく述べることはできない。というのは、人間の脳にはそれが理解できないからであり、またハート・センターが開いて機能するようになるまでは、人間のハートはこのエネルギーを自分のものにはできないからである。…私たちはそれを「神の愛」と呼んでいる。…それは本質的にグループ感覚である。…「ハートを開き、それを主に捧げた」人々だけが私の言っていることが分かるだろう。

アリス・ベイリー「ホワイトマジック下 」p.12
愛のエネルギーは、ハートつまり私たちの胸の位置で感じることができるという意味で合ってますか。

実際、人間の中心であるその胸、ハートという中心に愛のエネルギーは感じられる。自身の成長のために眉間でばかり瞑想している多くの兄弟が、「ヘッドタイプの内向性」に陥り、愛を知らない。「ハートタイプの外向性」という言葉に鍵がある。なぜなら、愛は外向きだからである。この外向きは、忘我つまり自分のことはどうでもいいと思わせる魂の能力から来るものである。一生懸命、あなたを迫害する者に対し、愛の祈りを捧げるべきである。彼や彼女の態度は変わらないかもしれない。短期的に結果を求めないことが重要である。最後に以下の言葉を紹介する。

自分のパーソナリティーの問題や、あなたがこの転生において生命の道を一緒に歩むよう選択した人々の問題に、あなたのマインドを向けないようにしなさい。彼らの魂を信頼しなさい。彼らのパーソナリティーに惑わされることなく、彼らの魂を経由して彼らと接触し、その接触を維持しなさい。数ヶ月経ったときに、魂のこの注意深い態度を保つことで何が起こるかに注目しなさい。(形態様相を無視して)あなたの魂のフォースを彼らの魂のフォースに加えたときに、これらの魂を霊的活動の増大へと活気づけることができるということを、あなたは知らないのですか。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」 p.143
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