やがて大宇宙は小宇宙に包含される

進歩の遅い人の特徴に、自己への強固なしがみつきがある。一方ですぐ進歩する者は、その自己を低級我とするならば、高級我の位置から、低級我との調和によって、高位の意識領域から低級我の意識を投げ落とす。調和によって知覚の対象外に追いやる。ここでは、マインドで生み出された想念を対象化して見たり考えたりすることはなく、いかなる二元も乗り越えられるゆえ、最も上質なかたちの素敵さがある。我々は物質界の海の波ではなく、内的な霊的魂の波に乗る。波との一体化である。この波と流れこそが、際限なき広大な大海にあって、最も安全で心地よい人生最良の航路を提供し、神という源へと我々を自動操縦で導く。素敵な光景に素敵な心地。自己放棄と呼ばれる賢さゆえの波乗りと波との調和が、意識を光と美の一体至福で満たすのである。

はっきり言うが、進歩を阻害するような質問の場合、それは自我の質問ですよね、そのことを理解した上でなお質問しますか、という意味の意図を投げかけたいと常に思う。だからラマナの場合なら、そのような質問が浮かんだ場合、その質問をしているのは誰かと即座に自らに問いなさい、と教えただろう。要点は、関わらないということである。

なぜ我々は関わらないでいられるのだろうか。同一化せずにすむのだろうか。長年の瞑想と長年の心地よい自己集中によって、その心地よさを阻害する非自己(質問などの想念)を「中心」から弾く作用が自動的に輝きを放つようになるからである。この意味においてマハラジは、「私は守護自体に守護されている」という表現をした。秘教的に言えば、「道そのもの」が道から外れることを許さないのである。もしこの調和を知り、何をもって平和と言うのかを真に知るならば、この世から一切の戦争も人殺しも有害性もなくなる。いわゆる悪という無知は根絶される。分離という錯覚を利用して、悪事を働かせようとさせる力は、この守護する守護自体の力によって、包まれ愛され、一体という真理の抱擁の中で慰めを知るだろう。はぐれ者の抵抗は終わり、振り上げられた反抗的な拳はぶらりと下ろされ、膝を屈し、おのが無知を知って、神の大愛に平伏すであろう。二度と「おのれ」を表現したくないと思うであろう。このようにして低級我は、真我の中に没し去り、自己犠牲と呼ばれる自己の死に輝くばかりの歓喜を見出すようになる。これが変容(第三)と放棄(第四)を通した復活(第五)である。このとき、我々と神とは同じものを意味するであろう。

一人でも多く真我に目覚めぬ限り、混乱した惑星の兄弟姉妹たちの、いばわ身内同士の争いと容赦のない残酷さが弱体化に向かうことは望めない。なぜなら、人間に害悪を働かせるフォースを支配する神の力を伝導できるのは、浄化された各々の媒体だけだからである。我々が守護する力の経路と媒体にならずして、どうしてこの世に、もしくはこの世を形成している原因の世界に、愛という神の意志と力を流すことができ得るだろうか。霊の器は魂であり、魂の器は人間である。我々の中から、分離という錯覚が追い払われ、一体意識において愛が優勢にならぬ限り、害を為さんとする力をこの世から溶かし尽くすことは決して望めはしない。

まだ有害な種子を保存している「自分」から、調査は始められねばならない。だからその部分を引用したかは忘れたが、前の質問者が、瞑想の最初に自身を「スキャンする」という表現をしていたように、魂の眼が開かれるとき、ありのままに自己を見ることが可能になる。見ることと知ることは同じになり、また同時になる。これは頭を使わない純粋な魂の視力による照らし出しである。このとき見られるのはエネルギーとフォースの世界であり、そのようにして、自身の内部の、より粗雑なものであれより精妙なものであれ、害を為さんとさせ得る力の源である物質質料に、文字通りなのだが、愛と光によって働きかけるのである。すると、一瞬で対象は対象ではなくなり、一体化の輪へと引き上げられるであろう。言い換えると、下方にはまだ悪があるが、清められたとき、その悪は上方におられる神の生命の一員として帰ることができるのである。

この世の誰かが、別の誰かを殺したからといって、その誰かを恨んだり、あるいは悲しんだりしている無知な時間は我々にはない。それは事態を悪化させるだけである。出来事の背後のフォースですら、我が内に存在し、霊的意識においては場所も距離も、時間も空間もないのだから、小宇宙内に大宇宙を包含するという逆説を知り、神から流れるその時に必要な愛と知恵と力を、ちょうど瞑想を通して小宇宙内の悪にかつて行ってきたように、向かうところ敵のない神の愛を、魂から魂へと、一なる我から別の一なる我へと、方向づけ、流し込み、働きかけ、集団で調和に向かう光の勢力の意志に、つまりはシャンバラと秘教徒が呼ぶ偉大なるセンターから発出している神の意志に、照準を合わせ、いじけた者にはぜひとも愛が必要なように、この世の「悪の棲家」に愛と光を投げ込み焦点化せねばならない。一切の平和と調和のために我を経路として、経路たりうる道具として、活用せねばならない。

このような「作業」もしくは「奉仕」に自己を首尾よく方向づけている間でさえ、我々には結果に対するいかなる執着もないことを言っておかねばならないだろう。この世の人間は、しばしば他人を変えようとし、望む結果が実現されるか否かに執着する。これを自滅行為と言う。無知ゆえの自己破壊と言う。形態の世界しか見ていないがゆえ、結果の世界で、形態に働きかけようとするのである。たとえば妻や子供が生意気ならば従わせねばならないと一家の主は言う。その手段は理詰めの説得であるかもしれず、法的手段に訴えることかもしれず、あるいは必要に応じた暴力であるかもしれない。いずれにせよ。相手を変えさせるためには可能なかぎりの手段を尽くすであろうが、その間、はっきり言ってしまうと、常に嫌な気分ではなかろうか。嬉しいだろうか。一瞬でも喜ばしいだろうか。他人を望ましい方向に変えることに執着する場合、その結果への執着がゆえに、たとえばその家庭は歪みと荒みに色づけられ、自身が執着する結果を諦めぬかぎり、最終的には家庭崩壊と、家庭に属する者の間の絆や一体性の終焉へと導くであろう。これらはすべて、神の働きを知らぬがゆえである。神の意志を人が理解できぬとき、個人の意志がその場を支配する。

真の崇高な支配の原理について、具体的なことを公に言うことは許されていない。なぜなら、悪用可能だからである。実際に、真の悪はその原理に精通しており、我々の見ている結果の世界には姿を表さずして支配している。内なる世界を統一した後、いわば小宇宙と大宇宙は同じものになる。人間は世界に包含されているが、超人は世界を包含している。神は偏在であり、神の臨在が見られぬ「箇所」というものがありえないことを超人は理解する。ここに、何をも恐れる必要がないことの根拠がある。我々が神と一体である限り、そこは安全であり、守護自体に守護されているゆえ、錯覚に惑わされ恐怖に屈することはない。弟子に起こりうる試練の一つに、受け持っている外側のその個人に対する攻撃というものが考えられる。もし弟子がまだ未熟であり、自身と肉体をまだ同一化する傾向にあり、人格我と真我の完全な識別に至っておらず、聖なる無関心を達成しておらぬならば、彼はそのような攻撃に耐えられる力をそもそも持たない。解決法は一つであり、自身をあくまで神に条件づけさせることである。あくまで小さな自己は放棄する姿勢を貫き、自己犠牲を厭わず、「神のみぞすべてなり」の意味を知り、「神の御心のままに」を知り、神の意識と神の生命において、愛であることのみである。悪が絶対に勝てぬ力とは、愛である。これだけ覚えていれば、恐れるものはない。

以上から、我々が真に価値ある効果的な働きをしうる媒体になる前に、必ず自己放棄と自己犠牲が行われていなければならないことが分かるであろう。これは瞑想と並行して小さなことから始めるべきである。日常の自身の態度から、見直しは始められるべきである。それは、普通の人が行うように、「何々をしてはならない」という知識や理解や訓戒によって頭で行われる努力ではない。前の質問者が「スキャンする」と言ったように、我と一体である物事や形態の背後の有害性を生み出している原因であるフォースに、エネルギー的すなわち霊的に働きかけねばならない。我をスキャンすることが可能になった後、すべての背後もまたスキャンする能力が身につくであろう。大宇宙は小宇宙に包含され、見られるものと見ているものが同一であることが自明になるであろう。すべては、我において我である。このとき、どのようにして悪が生み出されうるであろうか。それどころか、愛以外には何も存在せぬことを知るであろう。この一体性と、一体性に基づく無限の愛だけが、人類の希望である。そのミクロ版である個人の希望もしくは個人の問題への対処法もまた、神以外に存在せぬことを、臨在を通して知るであろう。象徴的に言うと、未来のすべての人間は、自身の内部に神を見出すだろう。そのようにして、この世はすべて神であり、「神のみぞすべてなり」の境地が達成されるであろう。そのとき、地球という惑星は愛の惑星となり、すべての悪意は愛の中で窒息し、最後には抵抗をやめて、悔い改めて、続々と愛に寝返るであろう。こうして、惑星と神の媒体は神聖になるであろう。

目次