われ光なり

瞑想は独学である。誰も教えないだろう。外的な教えは知識として人間を満足させるが実践には向かない。それは自身が見て体験した知恵ではないからである。独学とは、自我が魂から学ぶという意味である。魂の声は沈黙の声である。この声は、人間の騒音がかき消された時に聞こえるようになるだろう。人間の騒音とは、アストラル体とメンタル体の騒音のことである。これらのフォースは通常、暴走している。あてどなく彷徨う亡霊であり、愛に飢えた狼、生きることで苦しみを表現する飽くなき涙である。獣に理性を与え、共に愛を育むならば、光の中で新生する。われわれ人間つまり魂は、獣性を抱擁することで飼いならす太陽である。すべての対立を調和へ、すべての二元を一元へと引き戻す知の喜びである。

光を忘れた人間は限定の被造物である。思考はたえず限定なきものを限定する。「わたしは分からない」と言う。しかし、われわれは動物ではない。うめき声をあげる自我ではない。荒れ狂う無知のフォースと同一化し、王を物乞いに限定してはならない。われわれが魂のエネルギーとのみ一致して振動するならば、フォース体であるわれわれは静められ、その沈黙の中で愛と知恵に一体化する。「どうすれば」と問うのは自我である。このリズムとは関係がない。われわれはただ抱擁されねばならない。聞く耳を持つため、静かに瞑想しなければならない。やがてすべてがエネルギーであることを理解するだろう。そして従うべき新たな高位の波動をエネルギーと呼び、暴走する哀れな古き無知なるリズムをフォースとして識別するようになるだろう。獣性はわれわれ自身である。フォースはわれわれ自身である。したがって、われわれが古いリズムなのである。

魂の声は即時の理解であり、破壊することで引き入れる愛である。声を聞き、声を解釈する者から、声そのものにならねばならない。声は沈黙である。ただ在る喜びに打ち震えねばならない。しかしそれは休眠ではない。それは爆発であり、無限である。魂の声を聴く者は幸いである。魂の声に従う者は照らされ引き上げられる。人間は数しれぬ形態に束縛されてきたが、声そのものに波長を合わせることで自由になる。それはよどみのない無声、それは汚れのない無色、それは限定のない無形である。それは関わりを持たぬことで自らの無垢を維持する赤子である。両極端は出会う。それは白痴のように見えるがまごうことなき天才である。それは役立たずのように見えるが本当に働いてくれていたのは彼である。不眠不休の奉仕者は彼である。一切の見返りを求めず、どのような迫害にも耐え抜く働き手が彼である。どうして彼の偉大さに”居住まい”を正さぬことができるであろうか。人間なる放蕩息子が暴走輪廻でわが身をすり減らし、三界に行き場をなくしたとき、その沈鬱な眼差しを太陽が迎え入れるであろう。不幸の真っ只中で日が昇るであろう。この光をわれわれは知っている。盲ゆえに見えなかった光。暗黒に幸福を求めたがゆえに閉ざされていた光。過去に生きていたがゆえに見えなかった現在。とこしえに輝き続ける光を見よ。するとこう言わざるをえないだろう。われ光なりと。

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