アストラリズム

第二イニシエーションと第三イニシエーションの間に、弟子はアストラリズムと情緒主義に対して絶えず無反応であることを実証しなければならない。

アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.43
仕事をしながら、あるいは家庭を持ちながら、つまり人との関わりのある生活をしながら、情緒的に無反応でいることは可能なのでしょうか。もし私が無反応な人間になるならば、周囲は混乱するに違いありません。家内は私より年上なので、私より先に死ぬかもしれません。そのとき私が無反応であれば、子どもたちはひどい父親だと思うでしょう。感情のない人間である必要性、その極端な意義が理解できません。

そのような心配や情緒、想念に伴ういかなる感情とも我々は無関係である。したがって情緒性質に対しての完全な無関心が達成されるはずである。およそ2.5段階でメンタル偏極が達成され、どのようなアストラリズムも生じなくなり、グラマーではなくイリュージョンが次の課題になり、弟子はマインドの統御を学ぶことになる。瞑想はこの段階に属するものであるが、現在の人類の先駆者である瞑想者のほとんどが、この段階を達成していない。したがって強調する価値があるのである。

それは全く感情が生じないことを意味していますか。

その通りである。表現することは可能であるが、そこには同一化がない。

それは意識はあるが、無意識のような状態なのでしょうか。なんと言っていいか分かりませんが。

嵐の海は荒れている。嵐が止んだとき、海を照らし出すのは穏やかな太陽である。あなたは激流や牙を剥く波濤、響き渡る海鳴りしか知らない状態であり、それが正常であると主張している。本当だろうか。情緒とは、情緒形態と同一化したときの意識であり、そのような同一化がないとき、純粋な意識の性質――愛や喜びといったものだけがそこには映し出されるようになり、それ以後、人間を支配する要因はそのような魂の衝動だけになる。それは自由や解放といった言葉が意味するものを、いくらかあなたに体験させるだろう。その意識やその波動が素晴らしいものであるため、あなたはかつての感情や欲求といったアストラリズムを無視しはじめるだろう。なぜなら、雲や雨や雷や荒波によって再び太陽を消したくはないからである。

その状態で他人と話したり、仕事をしたりすることができるのでしょうか。少なくとも、周囲の人間は無感情な人間を恐れたり、正常ではないとみなすと思います。

愛は表現され、喜びも表現される。しかも穏やかに。そこには何の支障も起こらないだろう。恐れや警戒も克服され、内なる調和が外的にも反映されるようになるだろう。一時的に、つまりこのような意識を安定させる期間、何年か何十年かは分からないが、人との関わり合いを避け、内なる美に没頭する周期が必要かもしれない。それらが吸収され安定させられた後、彼は再び話し始め、表現し始めるだろう。

それは良い話のように思えますし、事実だと信じたいものです。私は数年前に、ADHDであると診断されました。落ち着いていることが難しく、衝動的で、感情のコントロールが苦手で、仕事でも大きな迷惑をかけています。私は落ち着いた人間になりたい。空気の読める人間になりたい。人様にこれ以上の迷惑をかけたくない。それで瞑想したいと思いました。瞑想は私の病気の助けになるでしょうか。

誰の病気だろうか。大気は汚染されても空間は汚染されない。あなたの病気は形態に付随するものであり、魂は病むことができない。病んでいる人は、病んでいない意識つまり魂としての意識を瞑想で知り、そちらが自分自身であることを知り、外的形態が患っていようがいまいが、何の興味も関心もなくなるだろう。表面に付着したものではなく、内側の本質を我々は知らねばならない。それは永遠に守られている。

私たちの本質、つまり真我とは魂である意識でしょうか。

意識は形態なしには存在できない。肉体が死ぬとき、肉体意識は死ぬ。あるいは変化する。焦点化している形態が意識を決定するのだが、であるならば、焦点化する主体とは何なのか。意識が肉体と同一化したとき、私は男だとか、私はADHDだとか言い始めるが、意識が肉体とも、アストラル体とも、メンタル体とも焦点化しなくなったとき、つまりは意識自体に意識が焦点化を始めるとき、何が真我であるか知られるだろう。それは意識とは何の関係もないものであるにちがいない。

私は瞑想を学び、感情をコントロールしたいのです。そのとき、病気は癒やされ、新しい良い意識が知られるでしょうか。もしそうならば、全くの初心者である私は、どのように瞑想を学ぶべきでしょうか。

人類は現在、アストラル形態に焦点化した意識たちである。彼らからアストラル形態を除去したとき、どのような意識が知られるであろうか。凪いだ海には太陽が現れるだろう。アストラル界の象徴は水であり、メンタル界の象徴は火である。人類は瞑想の概念を取り入れようとしているが、それは商業主義やアストラリズムに汚染された水の瞑想であり、火の瞑想ではない。欲望や感情の波に飲み込まれず、海の上を歩いて渡れるようになったとき、太陽の火は安全に受け入れられるだろう。

無欲な瞑想が必要である。病気のことをあまり考えないように。考えるほど、病気のまぼろしに力を与え、強くしてしまうだろう。無抵抗な瞑想が必要である。無関心な瞑想が必要である。瞑想は、何かを獲得するためのものであってはならない。そのようなアストラリズムは打ち消されねばならない。瞑想するとき、瞑想自体が瞑想を教えるものである。誰の助けがいるだろうか。誰も決して導くことはできない。ただ私でありなさい。これが教えである。これができない、分からないということは、外に何かを求めているということである。欲求や、情緒や、想念を見ているということである。

しかし私は静かにできない病気です。

問題ない。それは病気ではない。医者の言う事をそのまま受け入れる必要はない。彼らは基本的に無知である。しばらく瞑想すると、あなたは魂を認識するようになるだろう。魂を知っている医者はどこにいるのか。すでに魂である医者はどこにいるのか。しかしながら、あなたが魂を知るとき、あなたが魂である。そして彼の力が、その暴れたがっている力をおとなしくするだろう。このときあなたは、医者の話を軽視してよいことに気づくだろう。また病気などないことを知るだろう。真の医者は真我であり、あなたがその真我である。

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