イリュージョン

マインドが「すること」を止めるとき、それは単に在る。対象化がないとき、私たちの絶対的存在が在り、顕現した宇宙はない。

「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」p.116

付け加える。マインドが「すること」を止めるのは、マインドが魂を知覚するからである。我々は、マインドが、それ自体で充足している意識の上に塗り重ねられたイリュージョンであり、純粋な意識つまり魂がその表面的なマインドの観念的羅列と自身を同一化することで、マインド意識すなわち分離した自我意識を体験しているだけである。

第二と第三イニシエーションの間の過程でイニシエートは、以前にグラマーと戦わなければならなかったのと全く同じ意味でイリュージョンと戦わなければならない。イリュージョンとは結局のところ、大量の大きな想念形態がメンタル作用を支配することである。この戦いは、弟子が(第二と第三イニシエーションの中間点で)メンタル偏極を達成した瞬間から、決断の第六イニシエーションのときにイニシエーターの前に立つまで続く。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 下」 p.228

ここでは、特定の認識段階にある者が、イリュージョンと戦う宿命にあることが描かれている。何と何の戦いだろうか。魂自身が、おのれと、その表面を覆っている大量の想念形態であるマインド・精神・心といったイリュージョンとの識別という意味での戦いである。これは日常生活を通して絶えずテストされるものであり、融合し魂の純粋意識が人の意識において成長するときに行われる識別力のテスト、魂とメンタル的なイリュージョンとの主導権争いである。

融合と言いはするが、イリュージョンとの戦いの勝利者が発見するのは、一方がもう片方と融合するのではなく、片方が存在しないこと、唯一なる存在が存在するだけであるというものである。したがってそれは融合ではない。汚れた服を洗濯したら白くなったが、汚れは白の上に付着していた一時的な見た目である。これは融合ではなく漂白であり、汚れの除去である。瞑想と探求においては錯覚の除去である。そしてマインドを漂白するのは魂の無色である。

なぜ見えないのか

マインドが「すること」に急き立てられているのは、あるがまま、マインドの土台である存在自体を感覚的に知覚できないからであり、それゆえ、自分が何かをしないといけないと錯覚している。錯覚と同一化している。真実は、何もする必要がないということである。それはどこまで文字通りなのか。完全に文字通りである。

もし人が物事をあるがままに見る――直観的に理解する――もし人が、個人の分裂したマインドによってではなく、全体のマインドで現象全体を理解するなら、人は偉大な目覚めから遠くはなく、そのときには人が何をしようが重要ではない。実際、個人的存在が独立して行動することができると考えること、それ自体が間違いなのだ。

「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」p.113

ニサルガダッタ・マハラジは(おそらく)3.5段階のイニシエートだった。彼の言う偉大な目覚めは、秘教的には第三イニシエーションに関係している。それはパーソナリティーと魂の融合の頂点を示すものである。したがって「人が何をしようが重要ではない」という言葉は、魂の観点から自明のことである。多くの人が、「すること」に焦点を置いている。この個人的な行為、もしくは個人がどうあるべきかということと、魂は関係がない。多くの質問に対して、それを問題視しないように勧めるのは、マインドの観点から見ることをやめさせるためである。マインドはあらゆるものを問題視するが、魂は無反応である。魂が無反応なのは、それ自体に充足しているためである。だからこの意識と融合したマインドが知るのは、かつて感じたことのない幸福感であり、静寂であり、平和である。また決して知ることのなかった愛であり喜びである。それは聖者だけのものではなく、普遍的なものである。イニシエートや覚者といった分離感を煽り立てる錯覚した単語は近いうちに多くの人の中でなくなるだろう。なぜなら誰もが本質を辿りさえすれば、この意識、この意識する存在自体に落ち着くからである。今は、まだ特別な者だけが知る意識だと勘違いされている。

「すること」ではない瞑想

瞑想とマインドは対義語である。マインドが瞑想することはない。最初、人々はマインドで瞑想をしようと画策する。自分や自我が瞑想をし、瞑想過程を習得するものだと思い込む。瞑想に関する古くからのビッグデータに忙殺され、知った気になっている知識の教師、知識の弟子たちは数多く、彼らは知識や体系という意識の上に塗り立てられた彩色から自由になることを学んでいるところである。どのような色も無色の上の外観である。とりどりの色の夢中になることがイリュージョンへの敗北であり、無色を知りそれにとどまることが真の意味での古えの知恵である。

「する」が自然への抵抗にして錯覚だと知るならば、マインドは穏やかになり、「する」より「見る」を重視するようになる。見るために、目をつむるようになる。外観ではなく、その背後の特質に目を向けるようになる。やがて「見る」は「在る」に席を譲る。これが視力矯正の過程である。マインドが自身のフィールドで対象化に戯れるという夢想的な焦点化ではなく、静かになり、何もしないようになることで、魂と波長が合うようになり、色ではなく無色、想念ではなく存在、同一化ではなく無関係、対象化ではなく対象化しない意識、あるいはその意識が示唆する存在や生命そのものに吸収されるようになる。

日常での提案

以上の内容は、メンタル体の統御とイリュージョンというメンタル的な錯覚に関する話であるが、現代人の戦場はメンタル界ではなくアストラル界にある。感情や情緒、欲求や恐れといったものが、強烈な色彩を描き出している。ある者は落胆に色づけられ、ある者は有頂天に色めき立っている。そのため、「相反する極」という概念がアストラル体の統御を頂点とする第二イニシエーションに向かっている魂たちに教えられてきた。どんなことにも左右されない、静かで感情的でない生き方が助けになる。それは隠遁生活ではないが、不必要な関わりから自由になり、個人のための生、個人の価値観が強いる生、関心の中心が自分という生き方を諦めることである。ジェットコースターに乗らず、またエレベーターに乗らず、嬉しいと嬉しくないを行き来せず、これは好きであれは嫌いとは関係せず、個人の主張や問題を些細な事と知り、上がり下がりのない、何が起きても無関心か無反応でいられるような中心点つまりは魂の生活を見つけ生きることである。

アストラル界の錯覚であるグラマーが戦場になるが、これもまた本質的な勝利の鍵は魂である。ひとたび魂を発見し、それにとどまるすべが自分のものになったならば、自分が個人ではなく魂であることを絶えず覚えておくことが必要である。我々は一般的な日常生活を送りながら、誰にも知られることなく、この喜ばしい職務を遂行する。善に生きることを人々は阻もうとするだろう。欲望的な生き方、お金のための生き方、比較する生き方、自分や家族のための生き方、分離した生き方、恐怖を緩和するための生き方、これらを強制しようとしてくるだろう。これで、親しかった者、家族や愛情をもった者たちと離別することになるかもしれないが、その道をよく見てもらいたい。必ず足跡がある。先人たちもまた、このような孤独な道を辿ってきた痕跡がそこにある。辿られた足は砂礫で血まみれであった様子が、足跡の血痕から見て取れるだろう。彼らはまだ確証もなく霊的な事実を知らなかったが、その暗い道をときには絶望しながら、ときには泣きながら進んでいった様子が見て取れるだろう。情緒的には、この時期が一番苦しい時期である。しかし、我々には瞑想がある。この光を活用することで暗黒は取り払われる。そのとき、「人が何をしようが重要ではない」という乗り越えられた意識の報酬を知るだろう。なぜなら、そのとき我々は魂だからである。しかし完全ではない。次の戦場はイリュージョンである。マインドである。これは、もはや個人の努力や「道という錯覚」とは関係のないものであるため、難しいものではないだろう。難しさを感じる人がいないだろう。それは「することを止める」時期であり、美しい魂の季節である。

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