二つの衝突
病気が次の二つの方法で生じることに気づくであろう。
アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.250
- エネルギーとフォースの衝突によって
- フォース同士の衝突によって
人類の一般的な病気は2の範疇に入るが、第一イニシエーション(もしくはそれ以上)を受けている弟子の場合は1が加わることになる。より高い段階であるほど、その性質は1に属するものとなる。ここでは病気に関して話すのではなく、これが瞑想や瞑想生活においても同じであることを示したい。なお、引用冒頭の「病気」という単語を、「苦痛」や「不調和」といった、あらゆる他の言葉に置き換えることも可能である。
純粋に自我で行われる瞑想とは、2の範疇に入る。自我の瞑想とは個人の努力である。ここに苦痛の性質が入るのは、フォース同士の衝突によるものである。自我の領域で何を行っても無駄なのは、彼がフォースしか扱えないからである。よって自我とは絶え間のないフォースの渦にしてそれ自体の犠牲者である。自我意識は、自身を動かす力に関して全く認識しておらず、行為を自身のものと見なすことで、結果としてエネルギーとフォースの調和を乱すことしかできない状態である。
大部分の人々は情緒と欲求の界層から発せられるフォースと波動に反応している。……このエネルギーは、統御する魂によって意識的に操作されるか、魂とは無関係に三界の物質に備わっている固有のフォースによって活動へと駆り立てられるかのいずれかである。後者の場合、その人は自身の形態エネルギーとすべての顕現の物質様相の犠牲者である。もう一方の場合は、自身の運命の知的な支配者、統率者であり、マインドの衝撃力と魂の集中した注目によって、低位エネルギーを形態と活動へと向けているのである。
「ホワイトマジック 上」 p.263
我々は、自我を構成するフォースを、いかに意識的に、魂の界層から魂として、眉間を通してエネルギーからフォースに働きかけ、操作し、変性しうるかを学ぶのであり、これが瞑想や調和の基本である。
パーソナリティーのエネルギーは魂のエネルギーよりも一般の人の生活を条件づける上で遥かに強力である。魂のエネルギーは永劫にわたってその顕現点であるパーソナリティーを効力を持って掌握しようと試みてきたが、転生周期のかなり後半まではそうすることに失敗してきた。しかし、結局のところ、魂のエネルギーの効力は、パーソナリティーのエネルギーよりも果てしなく強力であるが、永劫とも言える長い年月の間、魂のエネルギーは三界において反応を示す諸体を欠いていた。
「秘教治療 下 」p.241
肉体(厳密にはエーテル体)が最初に「反応を示す諸体」となり、このとき人は第一イニシエーションを受け、アストラル体が次に反応を示す諸体となる。この種の学びに熱心な魂の多くがこの段階にあり、低位我のフォース(この場合はアストラル体のフォース)を高位我(魂)のエネルギーで変性させようとしている最中である。何も知識がない場合、この第一イニシエーションから第二イニシエーションの過程は地獄のようなものであり、しばしば極限まで苦しむ。それは、フォース同士の衝突によって引き起きされるものであり、これらのフォースは魂のエネルギーによって平定され、それによってあらゆる情緒性質は喜びや愛へと変性され、静穏で平安なる意識へ入ることができることを学び、自らの意識で証明せばねばならない。これが第二イニシエーションである。
エネルギーとフォース
フォース同士の衝突がなくなるとき、心理的な苦痛はなくなる。第二段階以上のイニシエートが個人的な苦悩(それは情緒的なものである)から自由なのは、フォースを野放しにしておらず、よって無意識のうちに衝突させることもないからである。我々は苦しみとか悲しみとか、あらゆる感情に打ちのめされるが、感情はフォースに対する解釈でしかなく、したがって感情をどうにかしようとするのではなく、その感覚つまりフォースをただ見ればいいということ、見ることが即変性であることを知る必要がある。
強い感情があるとする。それはアストラル界のフォースの束であり、カーマ・マナス的な形態である。これが苦悩であるとしよう。我々は、フォースに命名したり、それを概念の衣で包む必要はない。感覚によって苦しみとか悲しみとか我々は用語を切り替えるが、それらはいずれもアストラル的なフォースの束である。だから、眉間から、魂のエネルギーをその束である形態へと方向づけ、照射することで、形態は破壊され、形態に監禁されていた生命つまりエネルギーは上げられ自由になるのである。
フォースとは、何らかの形態内に限定され監禁されたエネルギーである。エネルギーとは、これら監禁されたフォースに、より大きくより包括的な形態内から、より精妙な界層から衝撃を与えることで、より粗雑な波動のフォースと接触する方向づけられたエネルギーの流れである。エネルギーは、それが衝撃を与える接触するフォースよりも精妙で強力である。フォースは強さにおいては劣るが、固定されている。この最後の言葉に様々なエネルギーの関係という問題を解く鍵がある。自由なエネルギーは、固定された接点という観点から見ると、すでにそこに固定されているエネルギーよりも(一つの限定された領域内においては)いくつかの点でその効力において劣る。それは本質的にはより強力であるが、効力はない。このことについて熟考しなさい。
「秘教治療 下」 p.241
フォースの束つまり固定と見なされるまでに成長したものに対し、我々は特定の感覚を知覚し命名する。苦しいとき、それを苦痛を呼ぶ。これで私的に概念化したため、逃避したことになり、フォースそのものを見ることはできず、苦痛から逃れようという発想になる。固定である形態と、固定を可能ならしめている質料のフォースを見なければならない。あらゆる形態内には監禁されたエネルギーつまり生命がある。これらの生命の解放に我々は関与しているのである。これを認識することは盲目に生きているかぎり全く難しいものである。
秘教哲学を学ぶ者は、我々の現在の太陽系で使用されている質料が、一つ前の太陽系で使われた質料であるという話に耳を傾けている。現在の太陽系で我々の神性が魂や霊へと向けられているように、当時の神性は物質様相にあり、活動する知性という第三様相が達成点であった。これにより、我々の質料つまりフォースが、絶えず物質へと向かう傾向を保持しているものと思われる。以前の太陽系では進化と見なされた方向も、現在の太陽系では退化と見なされる方向になっている。この種の物質に固有の引力を打ち消すのは、高位のエネルギーである。キリストが人類を救いに来ると言う人がいる。しかし、自身という形態内の生命を救いに来ているキリストは我々である。したがって聖人は、人の定義を「生命と生命たち」と言ったのである。
現在、人類は物質に固有のフォース、つまり物質へと向かわせる引力に盲目的に従っている。この引力に対するより強力な引力として、瞑想する者の意識に魂が登場する。つまりキリスト意識が芽生える。それにより、エネルギーとフォースは衝突をやめて、意識内で調和させることが可能になる。そのような力が人間に使用可能になる。その力は常に愛に根ざしている。形態の破壊の動機は愛である。フォースに対するエネルギーの適用は、多分に抱擁の性質を持っている。許しや慈悲の性質を持っている。受け入れること、愛すること、共に在ること、これらがやがて一体性の認識へと意識を導く。なぜなら、諸体のすべての性質が魂と同率の振動を帯びて従うとき、そこに境目というものはないからである。ここに、すべては私であるという認識の萌芽が見られる。したがって、なぜ秘教徒が外周から中心に至るかがより明瞭になるであろう。
秘教には、フォースとエネルギーの関係を理解し、接触したフォースを強めて創造的に用いるためにエネルギーを使う能力について理解することも必要である。フォースを創造的に用いることで、フォースはあがなわれる。秘教は、第三様相(知的な質料の様相)のフォースを二つの高位様相のエネルギーの受け皿として用いる。そうすることで、質料を救うのである。
新しい時代の教育 p.113