エレメンタルの統御

誰も「それそのもの」には関心がない。パソコンを付けても、モニターが映し出すものを求め見るのであって、モニターそのものはではない。なぜなら、モニターそのものは欲望を満たさないからである。世界もまた様々なものを映し見せるが、世界の原因そのものは人間の欲望を満たさない。映像や体験は、人間のマインド、情緒や欲求、そして肉体を刺激し捉える。つまり人間は、自分自身(三つの低位顕現体)の形成者の意向通りに騒音をかき鳴らすフォース、すなわち諸体のエレメンタルの養分を供給することには熱心であるが、エレメンタル・フォースを統御する支配者としての真の自己には関心がない。これは以下のものを識別できないことに起因している。

  • フォースとエネルギー
  • 質料と生命
  • エレメンタルとデーヴァ
  • 結果と原因

われわれは、形態を形成する質料を扱うのであって、形態のフォースに従うのではない。簡単な例を挙げよう。大食や性欲に溺れるとき、われわれは肉体のエレメンタルに養分を供給している。感情や欲求を満たすとき、われわれはアストラル・エレメンタルに養分を供給している。エレメンタルつまり元素は、形態の形成者に盲目的に従う。質料もエレメンタルも退化の道にあり、進化の道にある生命つまりわれわれとは引きつけられている方向が違う。われわれは、魂の光を使用し、低位質料の光を霊化する。魂のエネルギーを方向づけ、諸体のフォースに適用する。この意味と仕事に無知であってはならない。

「偶然悟った人」の本が書店には多くあるのだろう。秘教学徒はそのような意識状態への想念に欲望を抱かない。つまり低位エレメンタルに養分を供給しない。それらを統御するなかで「抽出」の原理を発見し、偶然ではなく意識的な超越を可能にする。これが、秘教徒が外周から中心、また形態から生命に至るという意味の初歩的な概念である。これについては神秘家と秘教徒の違いという個別のページがある。このような、いわば奇数光線的な考え方に反応し、実際的に質料を扱う者であるならば、いわゆる超越に関しては意識的なものであるはずだが、まだ欲望にしか反応できず、低位フォースの犠牲状態にある意識単位に対しては、それらフォースである自我としては何も方法がなく、何も自我として抵抗すべきではないことが教えられねばならない。それらのフォースが静められたとき、エネルギーを扱えるようになるだろう。ときどき、記事の内容に矛盾点を指摘されることがあるが、このことを理解することで矛盾ではないことを確認でき、さらなる応用概念に柔軟になるだろう。

惑星ロゴスが顕現した理由は質料とその形態をあがなうためである。…この科学を習得し終えたとき、彼らは生命の科学へと移行する。そして、特質づけられ、あがなわれ、原理にもとづくようになった質料と形態をいずれは捉えて用いるようになるエネルギーを扱えるようになる。原理に基づいていない質料をあがない、それを創造的に復活させ、霊的に統合することが、彼らの目標である。

新しい時代の教育 p.111
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