ガラス玉演戯

魂は人間生活の三界に三重の表現を創造する。外的な形態、つまり二重の肉体(濃密な肉体と活力体つまりエーテル体)は、魂が――良きにつけ悪しきにつけ――同一化の反応を巧みに処理したレベルから発せられるあるエネルギーとフォースによって生み出され、創造され、動機づけられ、活性化され、条件づけられるのである。この文章に注目しなさい、我が兄弟よ。これらが人をその人であるところのものにしているのである。これらは彼に物質界における彼の体質、職業適性、特質を与え、衝撃を与える様々なタイプのエネルギーに対して彼を受動的もしくは能動的にし、彼に彼の性格を与え、彼を他の人々にとって彼であると思われるものにし、彼の色合い、才能、パーソナリティーを生み出しているのである。平均的な人間は自らをこれらすべてと同一化している。自分自身を形態、つまり自分の欲求や考えを表現しようとするときに使う媒介であると信じているのである。束の間の創造物との、外的な現れとのこの完全な同一化が(個人の)マーヤである。

アリス・ベイリー「グラマー」p.284

これは自我意識である。人間が発達し、内的メカニズムを形成し、「同一化の反応を巧みに処理したレベル」に存在する魂と融合したとき、人間は個人のマーヤすなわち自我意識や諸体のフォースや低位の感覚知覚といったレベルから自由になる。影響を受けなくなるというよりも、彼の意識には存在しなくなる。個人のマーヤは無視され、関心の対象から絶えず外れ、無関係なものとなり、存在していないものとなる。低位我は高位我に完全に従い、ゆえに自我意識には決して知られなかった平和、静けさ、喜び、愛、そして至福が彼のものとなる。では神はどうなのか。

小宇宙である人間と、大宇宙である惑星ロゴス、世界の主との違いは、世界の主は、自分が創造したマーヤと同一化していないという事実にある。このマーヤの目的は、「惑星の囚人」の解放を最終的に引き起こすことである。マーヤに関しては極めて無関心である。

グラマー p.285

神が世界つまりマーヤに関して完全に無関心であるという点に着目し、自身にそれを当てはめるべきである。小宇宙のマーヤは大宇宙のマーヤの部分でしかなく、人間が自身のマーヤに対して完全に無関心になり、「同一化の反応を巧みに処理したレベル」に通じるならば、その領域で彼は神と波長を合わせることが可能になる。神が世界に対して無関心であるように、我々もまた錯覚を乗り越え、非実在を見極め、自我つまり偽我に対する完全な無関心を達成しなければならない。逆説的に思えるかもしれないが、これを達成させるのは真我である。そして真我と神は同義語である。我々と神はその本質において同一である。

我々にとって問題になっているのは、「同一化の反応を巧みに処理したレベル」に存在する魂との通路がまだ築かれていないことである。魂と一致しさえするならば、小宇宙のマーヤとの同一化からは免れる。加えて、小宇宙のグラマーとイリュージョンからも免れる。そして、この魂を我々人間が見い出すための方法が存在しないという点が、今日の平均的な探求者の問題となっている。我々は、真我がもとより存在するという全ての聖者が断言する話を信じていない。ゆえに、真我は獲得されるもの、修行や訓練の末に見出されるもの、探求のクライマックスで達成される何かであると妄想している。これは逃避である。自我はこのような逃避で生きながらえようとしている。そのため、方法がないことを自身にとって悲劇的な事であると解釈しようとする。これはグラマーである。

最初から存在し、いま存在し、常に在る実在といった表現が事実であるならば、それを認識できなくさせている障害が、まさに自分であるという絶対に避けては通れない事実を直視し始めるべきである。その自分とは、つまり自我とは、低位我のフォースの集合体である。しかし、フォースの意味が分かるためには、エネルギーを認識できなければならない。まずは魂のエネルギーを脳意識で知覚し(これを達成している者は読者に多数いるだろう)、そのエネルギーに諸体のフォースを従わせるだけである。これが整列に導き、人間には秘められているように見える高次の意識、真の自然な意識状態、いわゆる純粋意識へ自らを固定させるのである。

しかし、我々には高位のエネルギーが認識できない。魂を認識できず、それは概念止まりである。そして魂と連結するための具体的な順序や方法といったものは存在しない。もとより在り、いまも在り、ただ認識できていないだけのものにどうやって到達するのだろうか。あるいは、自我の精神的ないしは肉体的行為によっては到達できないということ、むしろ、そのような行為へと条件づけるものを制圧したときだけ、魂は認識できるのである。しかしながら、制圧するのも魂なのである。最後の文章は矛盾しているように見えるが、よく見るならば、制圧者つまり魂が訪れたときだけ、魂は認識できるということである。この魂の来訪を、人間はコントロールできない。ここでの問題は、冒頭の引用にもあるように、我々が自分を人間だと信じていることだけである。

しかし事実はどうなのか。自分が人間だと信じている自我が探求を始める。様々な瞑想法を行い、様々な聖者や師の教えを渡り歩き、すべてに対しての失敗が与えられる。ここで重要なのは、失敗の果て、すなわち「自分には無理である」という結論である。これは経験の世界で辛酸を嘗めることによっての結論であり、知識ではない。経験と体験から来た結論である。

ここで、いかに「諦念」と「忍耐」が重要になるか、そしてそれらが、抵抗を止めざるをえない状況において、いかに自我に真の打撃を与えうるかが理解されるだろう。私が個人のマーヤやグラマーやイリュージョンの区別もつかず、ただそれに錯覚を受けていた自我意識の時代、行われたことは、ただひたすら耐えることと、自分についての一切を諦めようという決意が起きたことである。当時は絶望的な気分だった。一切の希望が失われたと感じた。途方もないおのれの無力に涙を長そうにも涙も出なかった。このようなとき、私はとつぜん、魂意識に入った。それは「672夜」という記事に書いた。泣こうにも涙も出ないとはどういうことなのか。私は、完全に演技をしようとしている自分と、それを背後から完全に切り離され、何の苦痛もなければ何の不安もない、一言でいえば「余裕である者」を見つけ出した。しかもそれは私だった。つまり、これまでのすべてが、全部、自作自演であったことが理解された。本当は大丈夫であることを霊的本能でいわば知っているのに、あえて哀れな個人を演じようとしているおのれに大変驚いた。

形態はマーヤでしかなく無視できるということ、フォースはエネルギーによって系統立てられ方向づけられることができるということ、そして思考の世界、感覚意識の場、エネルギーの遊び場は、思考者、感じる者、魂が演じるよう引き受ける多くの役柄の演技者と役者とは別のものである。

グラマー p.286

私は、「演技者」である自分に驚いたのである。その「役者とは別のもの」として、「演技者」に驚いたのである。魂である真の自己は、自我とは無関係の存在であった。私は、ただ「演技者」を見る者だった。それにマインドが気づいた後、魂としてパーソナリティーを見ながら、驚愕したのである。驚愕とは表現であり、そのときは観照者の意識に入っているゆえ、そのオーラ領域内にあるため、いわゆるアストラル的な驚きというものではない。その驚きは、「驚きの喜び」と呼ぶべきものである。真実の発見に伴う納得の喜びである。「そういうことだったのか」という感心ですらある。つまり、マーヤ、グラマー、イリュージョンという錯覚から自由な領域、「同一化の反応が巧みに処理されたレベル」からの静かな解放の喜びである。

みなさん、個人と同一化していて、実際はその自分が「演技をしている者」であり、純粋な意識と認識と観照する真の自己が、いま自分という感覚があるその人とは全く無関係であることを知ったならば、どう思うであろうか。しかし、これが事実なのである。だから私がしたことと言えば、苦しくても耐えたことである。その苦しみがあまりにもひどかったため、もはや同一化は不可能であった。いきなり意識がズレた。「あれ」と思った。いわば苦い顔になった。なぜなら、「私は苦しんでなどいない」という背後の意識から「演技者」を見たからである。この領域が、我々が退くべき、自我から退くべき、自我に邪魔されて今は分からないが、背後に存在する観照者の意識である。これが、瞑想意識である。すると分かるが、瞑想とは、高位我の存在の状態でしかない。そして、高位我が実際は我々である。普通の人間における自我の優勢は、自我の生命力の強さに由来している。昨日のラマナ・マハルシの引用の中で、「静寂とは何を意味するのだろうか? それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ」とあった。これは、極度の苦しみを通し、いわゆる魂の闇夜を通し、耐えられないばかりの苦しみの結果、肉体の苦しみに耐えられぬ者が失神するのに反して、精神の苦しみに耐えられない者がその苦しみをそのまま見るしかなくなったとき、真理の眼が、あらゆることを一挙に理解させ、錯覚を打ち壊し、失われた神を取り戻すのである。

迷路で追う者と追われる者がいるとして、行き止まりで追う者に捕まりそうになったとき、もはや対峙するしかなくなるものである。怖いものをそのまま見ることしか道が残されていないのである。逃げるから苦しい。これは戦うための対峙ではなく、諦めから来る対峙である。そのとき、そのままただ、苦痛を見るということが可能になる。見ることは知ることである。ただ見るとき、見られたものが真実を教えるのである。「あれ」と思うだろう。追われていたと思っていた者、逃げ場がなくなったと感じ恐怖と絶望が頂点に達した者、この者は、その演技力に「嘘くささ」を見い出す。なぜなら、どうも、苦しんでもいなければ、恐れてもおらず、絶望してもいない自分に気づくからである。「あれ」である。まさか、全部が自作自演であったとは、あるいはマインドの強大な詐欺の被害者であり、ただ錯覚していただけであったとは、思いもよらないことである。

いま、我々はその「演技者」を疑っていない状態にある。これについて考えることは価値がある。十分に考えたならば、それ以上考える必要はない。覚えておくだけでいい。我々は演技をしている。シェイクスピアはこのことを完全に理解していたゆえ、森に隠遁した貴族ジャックを借りて、宮廷社会から距離を置いた森の中で、つまり人間存在から一歩引いた位置から観照する場面で、「この世は舞台だ」と言い、世界や人生の虚構性を示し、「人は本質的に演者である」という洞察を見せた。ところが19世紀的ロマン主義の者らは完全に自我で誤読し、「人生=舞台」という構図を、「自己表現の場」「自我が自己を完成させ輝かせる舞台」として読みたがえ、現代人は完全にこの真の意味を未だに誤解し続けている。普通の自我には、それは経験という有益さをもたらすが、真我つまり真の己が何であるのかを見い出す覚悟を見せている者は、この誤解から完全に自由にならねばならない。私が舞台から降りた意識を知ったあと、そこへ自由に出入りできるようにしたのは瞑想である。その後、その意識の方が当たり前になった。このようにして融合が起きていくのである。

書き足りないがもう長すぎる。考えるべき話はこの中にいくつもあったと思う。こういうことを考えるということは、深淵を覗き込むことであり、魂の注目を呼び醒ます契機になりうるものである。

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