キリストの再臨

肉体と精神を分けて人は想像するが、それはあくまで想像上の解釈である。現象的に見て、肉体の病であるとか、肉体的な不調といったものに苦しんでいる人は多い。それは耐え難いものである。しかし、瞑想の真髄を理解するならば、瞑想後には、そのようなものが消えていることを発見するだろう。例えば、肉体的な苦しみで眠ることもできないとしよう。瞑想を知っている者は、その苦しみという無知に堕落していたとしても、瞑想に入りさえすれば、物質界のことは分からなくなり、つまり感じることもできなくなり、無限の至福でしかなくなる。そして、人間は自身と神を分離して想像しているが、瞑想に入る者は自身と神が別のものという錯覚からは自由になる。どのような言葉で表すことも不可能であるから、仮にそれを神意識と呼ぶとして、瞑想者が神意識から人間意識にしばらくして戻ったとき、「そういえば瞑想する前に私は病気に苦しんでいたのだが」と言うだろう。肉体の病は消えていることに気づき、病という錯覚、体調不良などの錯覚、これらが真理に対する無知、真我から離れた副作用にすぎなかったことを思い出すだろう。

真の医者、つまり真に治したり癒やしたりする力は、どの人間にも内在している。この言葉をずっと忘れないようにすべきである。肉体の苦しみも、精神の苦しみも、マインドを超えた領域では知覚することは不可能であり、神つまり真我で在ることの美しさ、素晴らしさ、喜ばしさ、静けさ、安らかさといったものに、苦しみという錯覚は飲み込まれ包まれるだけである。

霊的素人は、苦しい時、その苦しみをなくす方法に頼る。仮に毒蛇に噛まれたとしよう。毒が回る前に彼は病院へ行き、抗毒素を投与してもらうに違いない。しかし抗毒素とは何なのか。医学的には、生体が本来持っている「免疫応答」という力を、人工的に利用・増幅したものである。毒という体内に入った「異物」に対して、免疫系が自然に作り出す「毒を中和するための分子」がいわゆる抗体だが、これをあらかじめ用意しておくために、馬や羊などの動物に毒を少量ずつ注入しておき、時間をかけて抗体を作らせ、その血清を採取・精製したものを保存したものが抗毒素だが、それは言い換えれば、他者の免疫力を借りて、即席で抗体を供給する応急処置である。何が言いたいかというと、結局のところ、他者に内在している真に治し癒やす力を使用したという話である。我々の内部にこのような力がすでに在ることを事実として知るべきである。

一方で、そのような真の力と「一体化」するような瞑想者は、抗体の生成に時間というものを必要としない。よって、勝手に常に治るため、不調や苦しみを感じることがないのである。カルマ的に起こったものに対しては、治せるものもあえて治さないことを選択するイニシエートは多い。したがって、病気であるからといって、その者が偽物であるということにはならない。したがって、「クリシュナムルティ 死因」などと検索する必要はない。とはいえ、本来は、人というものがすでに真我であるならば、不調や苦しみなどの感覚知覚からは完璧に自由である。これが事実であれば、どれくらい人類に恩恵をもたらすかが分かるであろうか。医者は病院が潰れるから困るだろうが、病人たちはみな癒やされるからいいではないか。将来的には、誰も苦しまない世の中が良いに決まっている。だが、今はまだ一部の「己に熟達した者」しかそのような恩恵については知らない。それはつまり、これから知っている者を増やさないといけないということである。

病気の苦しみから宗教に傾倒するようになる者は多い。彼らは、それぞれの宗教が予言する救世主のようなものが現れることや、そのような存在が自身を助けることを求める。仮にキリスト教徒がキリストの再臨を待ち望んでいるとしよう。私が彼のところへ行き、あなたがキリストなのだが、と言ったらどうなるかは想像がつくであろう。我々の時代は、まだ人類の黎明期にある。秘教的なこの第四王国が、霊的な第五王国に移行するにはかなり時間がかかる。そのような時間に任せるのではなく、瞑想しさえすれば、やがて彼は自身の内側に、そのキリストを発見するだろう。次に、自分とキリストが常に共存し、キリストが常に臨在していることを知りつつ生きるようになるだろう。最終的に、彼は自身がキリストであることを知るだろう。彼は時代に関係なく、人間という姿かたちを纏いつつ、霊的な王国に住まう者へと変貌するであろう。

私は生まれて二十年近く、一箇の人間として生きた。つまり、低位我のフォースに翻弄される、ただの自我として生きた。このような普通の者ですら、反省し、生き方を改めようと思い、真面目になろうと思い、静かに穏やかに生きようと決意したならば、やがて高位我を知り、高位我からあらゆることを教わり、知的に啓明を受け、そのような知性すら超えて、第五王国に受け入れられたのである。その位置と地位から第四王国の進歩した人間たち――瞑想者たちを見るとき、間違った瞑想をしていることを残念に思う。多くの人が、私と覚者とか、私とキリストとか、私と神とか、己をあえて弱い方の立場に置くことを好む想像力の遊戯への耽溺で機会を失っていることを残念に思う。彼らが想像しているような高貴なる存在は、内在している。その内在者が魂であり、魂が真我を教える。言い換えると、キリストが父を指し示す。再び、現象世界にキリストは戻って来るが、キリストとは、キリスト原理を体現する者でしかない。キリスト原理とは魂のことである。ゆえに、第一と第二のイニシエーションはキリストが授けると秘教徒は言うのである。なぜなら、その二つの段階のイニシエートが知る神性とは魂だからである。彼が十分に魂であり、つまりキリスト原理に生きるようになるとき、第三イニシエーションを授けるのはキリストではなくサナット・クマラ自身であると秘教徒が言うのは、魂が霊つまり本物の我である神そのものになるからである。

あなた方の問題は、間違った瞑想をしていることであると率直に言うことは効果的であろうか。瞑想を知るためには、何が間違いなのかを知るだけでいい。何日か前、私のところへ来る者に伝導し、魂から波動が降りてくるよう手伝った。文字通り、手を使用して伝えた。その者は、瞑想する者ではないが、人間が比較的純粋であったため、私の言うことを疑わなかった。私は、いわばその者の魂に働きかけ、魂がその者におのれを開示するために波動を降ろしたのである。そして、その波動が正しい波動であり、今まで生きてきた波動ではなく、その新たなる波動に融合するように伝えた。つまり、伝導を通して伝道したが、あとはその降りてくるようになった波動に瞑想を通して親しむだけである。その波動が諸体を調律し、調整し、神性に適うような媒体に仕上げてくれる。古いリズムを捨て去り、新しいリズムに生きるという単純な道を受け入れるだけで、この者の意識は第五王国へと帰ることが可能になる。

読者の中には、すでにこの新しい波動が額まで降りてきているが、その対処に戸惑っている人も多い。この波動が感じられない人は、必ずしも感じないからといってそのような者たちより「下」であると錯覚しないように心がけ、自分が考える最善の正しさに生き、定期的に、可能なときに瞑想するならば、小説の「蜘蛛の糸」ではないが、地獄から天国へと伝い登ることが可能な糸が額まで降りてくるだろう。その糸は、分離して登るなら千切れる。自分だけ登ろうとか、自分だけ進歩しようとか考える者には千切れる。そのような不純な精神ではない者は、その「自分」というものすら、糸から放たれる霊的効能にひれ伏すことで滅し、分離なき我として天へと登る。霊的欲望に惑わされて、自分だけ進歩したい、自分だけ悟りたい、このような者に霊的登攀は不可能である。なぜなら、その「自分」がいるからである。

間違った瞑想とは、自分による瞑想のことである。「自分」が瞑想の間違いである。難しく考えないでもらいたい。つまり、頭で考えるという逃げ道を作らないでもらいたい。無視して、ただできるだけ静かにしていればいい。静かにできないなら、二秒くらい静かにできればいい。それも無理なら、一瞬でいい。人間とは、通常、うるさいよりは静かな方が落ち着くものである。ゆえに、ただ、その落ち着くレベルの静かな感じを心地よいと思えればいい。そのくらいの静けさで十分である。定期的に静かにする習慣がつくなら、静かにしていることが好きになるだろう。瞑想などの用語は無視して、静かなことが落ち着くことであり、静かなことが心地よいことであることが分かれば、その者はあらゆる自称瞑想者よりもすみやかに発達するだろう。なぜなら、私がしてきたことは、このようなものだったからである。賑やかさ、騒がしさ、五月蝿さ、このようなものが好ましいものではなくなり、苦しみを生み出すだけのものであることを理解し、ただ静かにしていただけである。だから何もしなかった。私は自分の話をしたいからしているのではなく、このような話から間違いに気づくことを願っている。瞑想方法などない。静かにする方法など模索する必要はない。静かな方が好ましいことを、すでに知っているのではないか、と聞いているのである。

その好ましい静けさが、「彼」の証である。そして、その静けさで在るというなんでもないことが、真の瞑想である。したがって、いかに世の中に出回っている瞑想の本や、瞑想を教える人が、無視に値するかを私は理解してきた。内在しているのだから、なぜ教わる必要があるだろうか。静かだと落ち着くと人は言う。それが瞑想である。それ以上でもそれ以下でもない。特別な静けさを求める必要はない。その落ち着ける静かな感じ、その中にいればいい。やがて、そこにキリストが再臨するだろう。そのお方はあまりに素晴らしいため、泣く人もいる。そのお方は、この世からは想像もできないほどの愛と慈悲である。善人も悪人も関係なく、全てのすべてを慈しみ抱擁されるお方である。彼が救い主であり、彼によって以外に救われた者など一人も存在していない。キリストの物語は、そのまま内側で再現される。この話を信じることを勧める。そして、この話が当てはまらない人もまた一人とていないことを信じ、このお方の証であり徴である静けさに、ただ喜んで没入してもらいたい。すべての毒は抜かれ、すべての苦しみは去り、脊柱を龍となった蛇が登るであろう。これが昇天である。

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