キリスト教徒の女

このとき、不意に一人の男が眼前に浮かび上がってきた。父親を憎んでいる恨み深い男。彼がまだ若い時分、受験のために勉強が必要だった。しかし彼の父親は勉強より宗教、合格したいなら拝めばいいの一点張りで、彼の勉強時間をそっくり日蓮か親鸞か、父親の信じている仏に向かって拝まされた。歯向かえば殴られ、前歯二本を折られている。積年の恨みは根深く、この頃のありとある話を、この男は、もはや弱りきった父親の傍らで皆に話すのが常だった。「拝めば受かる」という馬鹿げた言葉を連発し、「キチガイ」の親父を持った思春期の辛さ苦しさを忘れられなかったのである。

私の前では、「瞑想すれば大丈夫」と言う私を半ば責め立てるようなキリスト教徒の女性がいた。「あなたの話では、瞑想さえすれば全てが克服され満たされ悩みも苦しみもなくなるという、狂信的なものの言い方にしか聞こえません」と彼女は言う。拝めが受験に受かるか。受からない。瞑想すれば受験に受かるか。受からない。私の言う瞑想は、この世のものから自由になることによる自由である。そのとき、この世の受験が必要だろうか。この世の悩み苦しみが知覚されうるだろうか。その女性は「神の臨在」を語ったが、神とは、そして臨在とは、「私は神を信じます」と言わせるマインドが静かになり乗り越えられたときに知られるものである。したがって、熱心なキリスト教徒は最も神から遠くにいる。ちょうど、イエスがエルサレムに入城した後、祭司長や長老たちから、イエスの教えの「権威の源」を問い詰められたことがあったが、「はっきり言っておく。取税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る」とイエスは言ったではないか。

要は、宗教的に整えられた者は、自らの信仰体系や道徳的優越感によってより強固に自己像を保持し、他者の言葉を「評価」する側に立とうとする。ここにおいて、真理はもはや聴かれることなく、選別され、管理され、骨抜きにされる。取税人や娼婦たちの方がなぜ先に神の国に入るのか。彼らに見られるのは、理路整然とした思索の産物ではなく、「自我による自己防衛が働かない」という知的な構造的脆さであり、それがむしろ真理への初期反応において有利に働くという逆説である。

私の前に現れた自称キリスト教徒の女性はどうか。「信仰」という語の下に思考的自己像(正しい信仰を持っている私)を構築し、それを絶対化することで、自らを神に近いと思い込む閉鎖構造に絡め取られている。これは形式的には謙遜を帯びていても、実質的には自己義認に固く閉じた構えであり、まさにイエスに立ち向かった祭司長や律法学者のものと同質である。「信仰している者」が拒絶され、「信仰していない者」が受け入れられるという逆転は、イエスの語りの本質的構図であり、そこにこそ神の国の真理が逆照射されていることに、いつ彼女は気づくであろうか。

瞑想とは、このような個人がしがみつく全ての概念や想念形態を溶かすものである。信じる者は神の国に入れないというのがイエスの話の本質であり、想念なく、マインドを乗り越えている者のみが、「私は何も信じないし何も知らない」という裸になりうるのであって、そのような知的で意識的な純粋な媒体にこそ、神は開示される。臨在は体験される。それは非常に純粋で高い波動による防御であり、この世のいかなる問題も無力化させる美しく浄らなものである。だから、この世の問題を私に持ち寄って来る者に対して瞑想をすすめるとき、それまでに何らかの信仰やイデオロギーに強く染まってきた者ほど導くのが難しいのである。彼らは頭で納得しようとする。私は納得を必要とさせる空虚や恐怖といった偽物をやさしく包み込む本物すなわち神を指し示そうとしている。そのためには、むしろ学のない者、素直に聞ける知的でない者の方が、しばしば有利に働くのである。彼らはその段においてはこの世の知性を持たないが、瞑想によって遥かなる知恵に到達する。それは知識をかき集め、具体マインドを鍛えただけの律法学者のような偽の知性ではなく、本質的な天の才であり、全知の源との連結であり、そのような者のことを覚者と言うのである。

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