「私にも可能だろうか」と多くの方が心配する。理由を聞くと、「ふさわしくないから」と仰る。何がふさわしく、何がふさわしくないという尺度は誰にとって存在しているのだろうか。本人が決めているのである。想像と思い込みであり、予測であり、先入観である。「であるに違いない」と言いたがる。謙遜ではなく恐れである。過去に殺人を犯しているのでと言う。奔放で迷惑な生き方をしてきたからだと言う。罪を償う準備はできているが、善や慈悲や愛は受け取れないと言う。「ふさわしい人間ではないので」が決まり文句である。そう言うことで、舞台が整い、シナリオが練られ、苦難を生きる自分というナルシシズムが編まれ、自分に隠れてひそやかに喜ぶ。こういうのがむしろ、はた迷惑なのである。
尺度は、個人や社会のものである。道徳や倫理や価値観も、人間のものである。生まれた時代や環境に依存している。個人が何を思い込もうが、何をしようが、動かしているのは真我である。どの人間にも等しく命として宿っており、批判なく彼の源である。この人間は悪人で、この人間は聖人である、などの区別をするのは真我ではなく自我である。イエスが殺されたということは、以前は殺した方だったかもしれないのである。永遠の観点である魂と真我は、あらゆる区別、あらゆる善悪、あらゆる比較から自由である。それは二元でも相対でもないため、人の上に人を作らず、人の下に人を作らない。誰一人として、高い低いは本質において存在しない。我々は、この本質から個人や世界を眺めるとき、何の分離もなく、何の差別もなく、何の決まり事もなく、したがって相応しいとか相応しくないというものもないことを知るのである。
外的な表現つまり個人は多種多様である。不誠実だったり怒りっぽかったり思いやりがあったりする。いずれにせよ利己的である。自分として生きている。この自分がどうであれ、その自分として生きないならば、誰でも真我を見出すのである。偽の自分、偽我に生きなければ真我が見え、感じられるようになる。偽りの自己とは、肉体、アストラル体、メンタル体である。これらに条件づけられているのが個人である。この三重の衣装は、必要に応じて、生涯毎に異なる毛並みをしているが、永遠の観点から見れば何ら善悪の対象ではない。時間に生きる分離した個人だけが、価値観に縛られている。
真我探究と我々は言う。この探求者とは誰のことだろうか。これもナルシシズムである。どの人間であれ、名と役を有し、おのれに酔っている。私は弟子で瞑想者ですと言う。私はろくでなしで貧乏人ですと言う。私は三度離婚し四人の子供をかかえるシングルマザーですと言う。私は悪魔崇拝者にして大統領ですと言う。あらゆる歴史、あらゆる背景、あらゆる物語が存在しているが、神や真我がこの夢を裁くことはない。分離していれば自動的に裁くが、絶対はただ絶対である。存在はただ存在である。
真面目になろう、正しく生きよう、瞑想をしてみよう。こう思わせる力が来たことが証明である。この明らかな招待状は偽物ではない。真我から直通で来ている。このとき、誰が私には可能でしょうかと言えるであろうか。個人は希望をもったり絶望したりを繰り返すが、無駄な抵抗はやめて、穏やかに個人を無視して、真我に没頭すべきである。最初は瞑想しても何も感じないだろう。諸体が精製されてないから。瞑想すれば、個人の知らぬところで魂がすべてを行う。彼が壊れたものを直し、行き止まりに安全な通路を開き、霧や靄を払い除け、騒音の源に働きかけて静けさをもたらす。個人は永遠に無能だが、魂は常に完璧な仕事を行う。個人は、自分というナルシシズムを脱し、おのれの無能性に気づき、魂と接触するために諸体を磨き、無執着に瞑想し、その波長に合った生き方を表現することでより魂と融合し、結果として愛の存在となり、その愛に喜び、分離した個人の物語に終止符を打たねばならない。すると言うだろう。私はいつでも真我でしたと。相応しくないと思いたがったのは自我でしたと。このことを最初から知っていたらと思いますと。こうして、彼や彼女は、兄弟姉妹にこの事実を伝えるだろう。人類は明るくなるだろう。真我において不幸はないのである。