ハートを開き、それを主に捧げる

「魂の私」とは、頑張ることを一切やめた存在の状態である。努力や根性や精神力は頑張ることに固執している無知な存在の状態である。ラマナが、荷物は下におけば列車が運んでくれるのに、と言うように、「精神の私」から自由になりさえすれば、荷物はなくなり、古い自我意識が自分と呼んでいた者の人生の面倒をその後に見るのは、その次世代の列車である。ゆえに、起きることは自動的な話になる。起床すること、瞑想すること、歯を磨くこと、活動すること、このような文章が書かれること、この世の問題に対応すること、すべてが新しい私からは埒外のものであり、勝手に自動的に起きていること、もしくは起きているように見える話になり、常に新たな私は一切の人生過程から自由かつ無関心である。

頑張らずに済む人生は、けっして怠惰ではない。頑張らせるのは精神や、その結果として存在すると考えられている自我の私であって、実際は神を含めて誰も頑張れとは言っていない。いったい、誰が頑張るというのだろうか。神は「私で在りなさい」と言っていることを理解しようとせず、頑なにハートを開かず、精神を用い、精神の後の自我の私で何事も頑張られている。「頑張ることは辛くないですか」と神の国に属する看護師は心配そうに囁いている。経験を積み、観念せざるを得なくなった自我だけが、「はい、もう頑張ることはできません」と認める。これが明け渡しである。これが放下である。

ところが、禅や仏教や哲学における放下は、意味を知らない者が勝手に解釈して教えているため、依然として自我で行う実践的行為だと思われているようである。放下とは、個人が行うものではない。個人自体が放下される対象であるのに、どうして個人がそれをできるというのか。この程度の矛盾すら分からぬのならば、永遠に個人で行為という錯覚のままではないか。放下は、個人がその源と繋がったとき、そして源が真の自己であると認識されたときの非精神的な存在の状態であり、真の私ではないものとの無関係さを表すものである。これが理解されたとき、精神と精神がもたらすあらゆる「荷物」は下ろされるのである。仏教徒の言う「身心脱落」も同じ意味である。

これはいかなる修行によっても起こることはない。修行する者が自身という錯覚を理解できるぐらい、波動が高くなり、つまり諸体が浄化精製され、魂と一致するようになったとき、我々における「私」が個人ではなくその背後の実体になるのである。その途上で精神や荷物は放下され、不要な関わりのないものとして脱落されるが、やや逆説的に聞こえるかもしれないが、それらはすべてとの一体性、もしくはすべてが私という一に包含されるという、言葉でいい表すことの難しい自然意識を根幹とするものである。そこにはいかなる頑張る個人も存在せず、あるのは愛と喜びと至福である。

昨日、駐車していた私の車にトラックがカーブをミスってぶつかり、半壊とまではいかないが、惨めな姿になっていた。妻などから聞かされ、収拾のつかないらしい現場に話をしに行くことになった。加害者側が怖い人たちであること、自分のせいではないの一点張り、自身の立場を優位にして進めるために暴力的な態度で臨む覚悟の者たちであることを聞かされた。下にいる警察、その警察に怒鳴り散らかすトラックの運転手たち、ギャラリーたち、それらの物々しい態度、物々しさを恐れる者の態度などで渦巻いている様子が見えた。

悲しいことに、誰一人として愛を知らないのである。責めたり責められたり、恫喝的で反抗的な振る舞いを見せたり、加害者が逆ギレしたり、警官たちも抑えるのが必死という有り様である。私はその中に被害者側として出ていったが、皆の心の内部や一人ひとりの人生背景まで私自身として透けて見えるため、愛という一体性の中ではすべてが微笑ましく感じられた。愛を知らぬがゆえの恐怖、自身の責任にされることの恐怖、その後の顛末への恐怖、あるいは出てきた私を威嚇したくとも、意想外に手強そうな相手であったこと、あまり楯突かぬ方が身のためかもしれないと考え直し始めている様子、ゆえに黙しつつ睨みつけるのが精一杯といった有り様であったため、車の確認はほどほどにして、各々と話をしに行き、大丈夫であること、何も心配のないよう折り合いをつけてはからうつもりであること、歩み寄ること、抵抗したり反抗したりする必要をなくしてやること、これらを愛として表現したとき、もう「すみませんでした」の連続であり、事の真実の「白状」すら自発的に出る始末で、警官も含め、そこの誰もが恐怖から解放され、安堵し、相手より優位に立とうとするあらゆる「頑張り」が解かれたではなかろうか。だから下に降りる前に、私は妻に、愛すること、ぶつけた者の気持ちを汲むこと、暴力的態度で言いくるめられる心配はいらないこと、愛に勝るものはこの世に存在せぬことを言い聞かせ、警察すら怖がって自分たちの仕事をすませて後はご自身たちでの話なので、といって逃げ帰っていく現場を、それこそすべて丸く収めたのは、愛だと言うのである。そして愛は、精神を放下した者の特権であり、すべてを愛せるという美しい神の生き方・在り方である。

自分を放下せぬなら、相手が存在するだろう。主張の食い違いで争わねばならないだろう。優勢と劣勢があるだろう。あの暴れ者たちのリーダーと話すとき、始めはその主張をただ黙って聞き、最初に私の口を突いて出た言葉は、「私はあなたを信じます」であった。目と目を合わせて。言ったあとも私は相手の目を見つめていた。虚を突かれたかのごとく、もうそれだけで武装解除モードへ進路変更せざるをえない自分にうろたえ、しどろもどろで、自分の在り方が分からなくなっている。だから、その後に私が話ことに対しては、すべて「はい」で返事。吠える犬と同じで、相手が敵でないことが分かったあとは、争うこともないのである。あるいは、犬を怖がる者に犬は噛みつくように、怖がらぬ者、むしろ愛する者に対しては、従順だと言うのである。なぜ無恐怖なのか。笑ってしまうことだが、魂的にも生命的にも同一人物だからである。この一体ゆえに、愛がその場を占拠するのである。

いま時間は十時半にさしかかりつつある。そろそろ代車の件で話し合いにゆかねばならない。だから早く書くが、愛がないのは、己を捨てていないからである。もしその自分がいないなら、この世での肉体や精神はただの愛の伝導体になる。この放下は精神の努力で到達するものではない。むしろ己という武装を解くこと、武装解除するとは従順になるということ、自分ではなく魂に従順になることによってのみ、一切の頑張りなしにすべては達成されるのである。「する」が解除されたあと、「在る」が支配する。それがサット・チット・アーナンダである。

「太陽のハート」から放射されているというエネルギーについて詳しく述べることはできない。というのは、人間の脳にはそれが理解できないからであり、またハート・センターが開いて機能するようになるまでは、人間のハートはこのエネルギーを自分のものにはできないからである。…私たちはそれを「神の愛」と呼んでいる。…それは本質的にグループ感覚である。…「ハートを開き、それを主に捧げた」人々だけが私の言っていることが分かるだろう。

アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.12
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