最後に一つだけ質問させてください。年末くらいから、耳鳴りのような頭の中で音が聴こえるようになりました。音というか、高周波のようなサーっといったような感じてす。単音ではなく多重に、それぞれに様々なリズムがあります。虫の鳴き声のように、静かにしているとよく聴こえます。今も聴こえています。決して不快な音色ではありませんが、うっとりするような感じでもありません。瞑想中も導入時には聴こえていますが、集中に入ると聴こえていないようです。日常生活には支障はありません。まさに虫の鳴き声のように、気付いたら聴こえている。といった感じです。貴方様のアドバイス通りに定期的に波動を落としていますので、瞑想のし過ぎでは無いように思います。
日常生活に支障がない場合は無視すべきである。あらゆる音が実際には鳴り続けているが通常の人間には知覚されていない種類の音が無数にある。秘教徒が「Vital Air」と呼ぶびっくりするような大きな音も常に鳴っているが、眠りにつく直前や肉体から意識を抽出するときにしか聞こえない轟音など、無数にある。それらは聞こうとすれば聞けるが、私は気にしたことがない。現象的なものは我々には無関係であり、特にあなたは普通の人がまだできないこと、まだ知りもしないオカルト的なエネルギーの扱い方を習得しているため、無視してただ魂との融合を維持し、存在の世界にのみ意識を固定し自由であり続けることが目標である。その先に完全合一すなわち秘教徒の言う第三イニシエーションがある。
私が何のアドバイスをしたのか覚えていないが、定期的に波動を落とすというテクニックは有効であり、これを知らない場合、危険である。通常は苦痛を感じるため、古い波動のリズムに落とすことを自然と定期的に選択することになるが、一部の狂信的な人々は、原理主義的であり、こうすべきだ、という知識の教えを崇拝するあまり、柔軟性を欠き、あるいは早急に発達したいという欲望の方が勝っているため、苦痛に耐えようとして、諸体を長時間、高い波動に晒してしまい、自己破壊的な障害に遭遇しがちである。ゆえに、私は適度な娯楽、あまり感情的ではない娯楽やレクリエーションを重視して教えることが多い。
融合が通常になるまでは、瞑想で高い波動つまり魂の波動を、それまで自身を条件づけてきた諸体の波動に適用し、魂に対して諸体を整列させ、調和一致させ、徐々に高い波動と高い意識に慣れさせていく。この時期、瞑想では大なり小なり魂意識、日中では大なり小なり個人意識、というかたちの進歩に応じた二重生活を送ることになる。これはよく知られた話であり、すべての弟子が通る(困難を伴う)道である。この揺れ動きの幅が徐々になくなり、ちょうど第二イニシエーションを受ける前に、情緒的な「相反する対をなすもの」の中道に自らを固定させてきたように、より高い螺旋状にて、魂とパーソナリティーという相反する対の中道すなわち融合が優勢になり、やがて知らないうちに、二重の意識からすれば融合と見られた意識が通常の意識になる。
貴方様の仰った通り、アストラル的なものに対する破壊は、特に意識しなくても自動的に行われるようになりました。以前は瞑想の導入時に、負の感情や情緒が潜んでいないか、己がうちを一旦スキャンし、発見した場合は魂で清めてから瞑想に入っていましたが、今はスキャンしても何もありません。日常生活の中で発見されても、よっぽどで無い限りは魂を意識することなく自動で破壊されているようです。
この自動の力こそが、前の記事の概念で言えば「魂の意志様相」に当たるものであり、神の意志が魂と呼ばれるセンターでステップダウンされたものである。この力こそが、我々の個人の意志を引き継ぐ神の意志になり、個人の意志は神の意志の中で没し去る。この完成を秘教徒は第三イニシエーションと呼んでおり、別名として変容のイニシエーションと呼んでいる。意識が完全に変容するゆえ、普通の人はそれを悟りと言っている。何を悟るというのか。実際は錯覚が無くなるだけである。ゆえに隠されていたもの、最初から存在していたもの、永遠なるものが自己であると理解されるだけである。悟りは特別な状態を指す概念として考えられるべきではなく、我々にとっては早めに到達すべき初歩的な意識とみなされるべきである。したがって、ジュワル・クールは第三イニシエーションが実際は第一イニシエーションであると言い、この意識に至ってはじめて初心者とみなされることを強調した。正しく瞑想し、流入した正しい力におのれを明け渡し、それゆえに正しく生きることになる者は、このような意識段階は霊的には最も初級のものであるとみなすべきである。
第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.55
この文章の重要性を特に強調したい。しかし、ベイリーは間違って書いているように見える。第三イニシエーションの後ではなく、前だと私は思う。「この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され」た後だと書いてあるように、「パーソナリティーと魂の意志が融合」されたその完成を第三イニシエーションと普通は呼ぶからである。この融合意識で「自らの個人の意志と神聖な意志」との違いをはっきり識別するようになり、ここで初めてラマナが言うような「明け渡し」は起こる。個人の意志を神の意志に明け渡させる力の方が優勢になるのである。このとき、我々は融合しているとき以外は苦痛を味わうことになる。ゆえにブラヴァツキーは「真我以外はすべて苦痛」だと言ったのである。正確に何と述べたかを書物を引きずり出して探したが見つける前に別の文章――これまで話した内容をよく示している文章が目に入ったのでそちらを紹介する。
人格我を認めることも全くなくなり、アストラル本質がゼロにまで減じた時にのみ、高級我との合一が行われる。アストラル本質に反映されるものが、まだ生きてはいるがもはや欲望や利己的な性質がなくなり、征服された低級我だけになると、その時には、輝かしいアウゴエイデス即ち神聖な我は、人間存在の両極、つまり、浄化された物質からなる「人間」と、元より清浄な霊的魂の両方と共に意識的に調和して振動を始めることができるのである。そして、とこしえに「それ」と交じり合い、没入し、一体となった真我、グノーシス派のいう「クリストス」の面前に立つことになるのである。
この文章は第三イニシエーションを示している。このような調和、交じり合い、没入、一体化は、第三イニシエーションよりも前に達成され、浄化された物質からなる人間と、元より清浄な魂との完全な融合を実証したとき、第三イニシエーションと呼ばれる特殊なエネルギーの刺激を「クリストス」そのものから受ける。パーソナリティーと魂という揺れ動き、つまり揺れ動かすアストラル・メンタルの双方のフォースの統御、すなわち魂による自我の統御が、第二イニシエーション前から行われる弟子における意識的な「訓練」である。そしてこの訓練は、自我が行うものではなく、自我を統御する魂が行うものである。ゆえに、自我は、自身を魂に明け渡すという、フォースに対するエネルギーの全面的な適用と調和を瞑想で学ばねばならないのである。
私が常々言いたいのは、個人の意志で瞑想している人が多いということである。これは瞑想と逆のことをしていることになる。今回の質問者はすでに魂と接触しているため、「自動的」に事を為す魂の力つまり意志に、あらゆる個人の意志を従属させることを実証せねばならない。おそらく、魂によって諸体を整列させる、という意味がオカルト的に理解できると思うのである。ラマナの教えと秘教を融合して説明するならば、パーソナリティーの意志を魂の意志に従属させることが明け渡しである。魂さえ理解できれば、これは難しいことではない。むしろ、もっとも自然な状態であり、それ以外の意識状態は苦痛になる。なぜなら調和していないからである。
通常の人間の場合、アストラル性質が強すぎるため、意識が霊的不調和の苦痛を知覚できない状態にある。つまり、アストラル・フォースのリズムと完全に一致しているため、むしろそれが心地よく感じられるのである。よくある面白い例を挙げると、このような霊的段階の弟子はしばしば音痴である。あるいは、いくら運動神経がよくてもダンスは苦手である。なぜかは説明するまでもないだろう。どの波に乗り、どのリズムに、どの主に我々は仕えるであろうか。瞑想で魂と接触するようになった後は、主を交換せねばならず、アストラル体に奉仕するのではなく、魂に奉仕せねばならない。このことを自己犠牲と言うのである。そしてこの自己犠牲には喜びが伴うものである。
第二イニシエーションと第三イニシエーションの間に、弟子はアストラリズムと情緒主義に対して絶えず無反応であることを実証しなければならない。
秘教治療下 p.43
通常、アストラリズムの統御の完成が第二イニシエーションと思われているが、実際は完全な統御を意味していない。メンタル体が統御されていない限り、アストラリズムはまだ存在する。したがってブラヴァツキーは正確に述べていることが分かる。「アストラル本質に反映されるものが、まだ生きてはいるがもはや欲望や利己的な性質がなくなり、征服された低級我だけになる」ことが、第二と第三の間の目標の一つである。これは、自身が魂のエネルギーの媒体になることで達成される。それゆえ、「人格我を認めることも全くなく」なるのである。魂つまり真の自己を認識している者が、どうして人格我といわば両立して関係することなどできるだろうか。したがって、第二と第三の間で要求される完全な識別は、魂のエネルギーとパーソナリティーのフォースの識別であり、どちらを主とするのかの完全な選択の実証である。ゆえに、
変容のイニシエーションの糸口はパーソナリティーにある。……第三イニシエーションを受ける秘訣はパーソナリティーの主張と要求から完全に自由であることの実証である。そのために霊的な生命を完全に表現する必要は全くないが、イニシエートの奉仕と彼の生命表現が、生活傾向と人類への完全な献身の観点から見て、また広く全般的に考えて、低位個我の依然として存在する制限の影響を受けていないことを示している。
光線とイニシエーション上 p.68
面白い言い方をしてある。「低位個我の依然として存在する制限」がありながらも、「影響を受けていないこと」が要求されると書いてある。言い換えると、制限の中に制限を受けぬ我が存在している。これが人間における真我である。私の説明の意図は、人々が「真我実現」などという概念でそれを自身とは離れて神聖化し、遠ざけている態度を覆したいというものである。「私には無理だ、駄目だ」などのアストラリズムを統御するのは魂である。この魂の媒体になるために静かで在ることが瞑想である。ところが、一歩も成長しないタイプの兄弟方の特徴は、瞑想で得られるパワーを人格我のメリットのために利用しようと考えている点である。この種のアストラリズムな書籍が溢れかえっている。これは、霊的な方向とは反対の方向へと導くまやかしであり、しっかり本物を見極め、何が真理にして真実であるのかを見失うことなく、アストラリズムに負けることなく、自己を魂に方向づけてもらいたい。この方向づけは偉大なる奉仕であり、さらに偉大なる奉仕をイニシエートに解放させるものである。
だからアストラリズムの誘惑に負けそうなとき、最高の祈りとは、魂への方向づけである。しかし方向づけが比較的無力であるのは、まだ魂と人格我という分離があるからである。融合したときだけ、真価を発揮することができる。つまりすべてを自動的に統御することができる。なぜならそのとき、人格我の手綱を握っているのは魂だからである。このとき、意識は天国的である。個人の意識とはオーラ的に完全に切り離されている。それゆえ、制限の中に在りながら制限を受けぬことが可能になる。それはもはや、個人という制限からは自由だという意味である。
この意識段階が難しいものではない、ということを具体的かつ段階的に説明し、瞑想という実践に導き、「それ」を実際に味わい、とこしえの交じり合いへと導くことが、このような文章が目指しているものであり、したがって瞑想で各々が自身に向かい合い、書物に書いてあることの実践など、低位我で抵抗するのではなく、高位我を受け入れることで、正しい瞑想を進展させ、融合とか合一とか言われてはいるが、ただ神の力によって制限が破壊され撤廃されただけである意識段階まで、自らを瞑想で、つまり魂で浄化してもらいたい。
