プロジェクトX

自分という感覚は、時間の意識にしか存在しない。過去の積み重ねとしての現在が自分である。ここで我々は問う。過去がなかったならばどうかと。過去が事実ではなかったならばどうかと。過去というものが、ただの想念ないしは想像力の産物でしかなかったならばどうかと。――しかし、実際そうである。過去や記憶というものは維持されている想念でしかない。そんなものは放棄してしまえ。

過去がないとき、現在しかない。それは、永遠に現在である。我々の新しい意識は過去の産物ではなくなるだろう。現在すなわち存在であり、そこには行為も行為者もなく、I AMだけが広がっている。多くの意識たちは、まだ時間に生きている。片時も過去を忘れはしない。現在は、たえず過去で上塗りされており、見えないままである。人間にとって現在は存在しないも同然である。I AMの意味は理解されぬままである。Iと個人を常に結びつけている。Iは原因だが、I AM XのXは結果であり想念である。したがって想念の背後のもの、想念以前のものが、まさに想念への執着によって見えないままである。

I AM Xにおいて、我々はXの世界しか知らない。ゆえに、「地上にある星を誰も覚えていない。人は空ばかり見てる」とプロジェクトXたちは言われるのである。しかし長年の瞑想は、このXの感覚を失わせるものである。Xの計画を星の計画に置き換えるものである。最初は魂と呼ばれる概念が指し示している何かに到達する。そのとき、I AM THATという認識が生まれる。それは人間が開拓すべき次の新しい意識である。人間つまりXの問題はこの領域で解消される。なぜなら、自身が具体的なXであるという認識は、名づけようもないTHATに置き換えられるからである。この時点でまだマインドはIとTHATを分離して見ている。ゆえに、この段階においてはTHATへの没頭が瞑想であり、これが長期に渡って習慣になったとき、THATはマインドを完全に掌握する。マインドはTHATのおとなしい下僕でしかなくなる。このとき、我々はIの啓示に至る。Iそのものとなり、I AMを理解する。こうして、最初から自分であったもの、最初から原初であったもの、最初から存在していたものに意識は吸収され、何もしなくていいし、何かをするということがないこともまた理解される。これは存在の領域である。

これを読んでいるほとんどのマインドは、自身をXだと思っている。ゆえに、「名だたるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかり掴む」とプロジェクトXたちは言われるのである。これは時間の領域に束縛された冷え切った地獄意識である。それくらい、Xが取り払われた後の真の世界は温かい天国である。解放という概念がある。我々はまだ解放されておらず、束縛されている苦痛も理解していない。解放されたあと、どれだけ悲惨な状態に生きていたかが理解されるだろう。一切の束縛から解放されるためには、一つには、時間という観点からおのれを見直す必要がある。時間や過去や記憶は想念である。我々のXはそれらにいま支配されている。「私であるXは昨日誰かに傷つけられたから今日もまたその人を許せない」と言わせる精神である。しかし、我々が時間の世界から脱するならば、毎瞬、意識は新しく純粋であり、いかなる過去にも縛られることはない。昨日誰かに傷つけられても、あるいは一瞬前に誰かに傷つけられても、時間の領域から自由であり、すなわちXがもはや自己ではない場合、すべてがIであることを、愛の中で映し見ることしかできぬゆえ、愛しか存在できないことを驚きの喜びの中で見い出すだろう。

自分がXであるから、他人もXなのである。自分がIであるなら、他人もIである。すべてがIであるなら、愛しか存在できない。しかし、我々はまだXに没頭しているゆえ、自分がXであるという想念に執着し続けている。これでは分離した悲惨な意識状態であり、自己中心的に生きる宿命であり、決してIも愛も知ることはできない。Xは、この世の者で言えば、詐欺師のようなものである。過去数千回あるいは数万回といった生涯でも我々を騙してきたが、ここに気づかぬかぎり、次の生涯もまた別のXを自分と思い込むことだろう。そのようにしてIは経験を積むのだが、いよいよもって馬鹿馬鹿しくなり、Xであることに懲り懲りして、もはやXであることに我慢の限界となり、解き放たれたいと願うとき、Xたちは瞑想に導かれる生涯に遭遇するだろう。そして瞑想が引き込む名づけえぬ何かは、Xを溶かし始めるであろう。その火と熱によって。

我々は、どの生涯でもXだと思い込んできたが、Xであるはずがないではないか。Xとは一つの夢幻的な作り話である。弟子の場合、THATにすでに到達しているゆえ、THATとして生きることを日々学んでいる。平均的な人間は、無数のXを積み重ねることが今のところ目標である。次の生涯ではどういう人になりたいと彼や彼女は言うだろう。これが何万回も続くだろう。草原のペガサスであったり街角のヴィーナスであったりするだろう。このような輪廻の終盤において、私がXではないという感覚や、Xでありたくないというプロジェクト感覚が優勢になる。自我が、自我の終焉を願い始めるようになる。しかしこの時期、見習いの弟子は完全にXでもなければ、THATの存在も知ることはできない。ここに最悪の闇がある。ここで道を間違えるXたちが多い。まだ識別できぬゆえ、Xの情緒的感覚であったり、想念であったり、何にでも影響を受ける状態にある。したがって一時的に導く者が必要である。さらに進歩した時、つまり確信さえも超えて道が事実になったとき、師はいらなくなる。師は必然であり、師と私は同じものになる。だからこそ、すべておのれで解決できるようになるのである。分からないこともおのれで分かるようになるのである。そして、分かる必要すらなくなるものである。なぜならこのとき、知識の領域は過去のものになっており、それが活用されるのは、まだ知識の領域に閉じ込められているXたちに解説するときぐらいにしか役立たないものになるからである。

知識人は、知ることの喜びつまりメンタル体の低位の喜びに目覚めつつあるが、知らないことの喜びをいずれ見い出すだろう。知ることが束縛に直結し、知らなくていいことがいかに解放であるかを知るであろう。こうしてイリュージョンから自由になり始めるだろう。かくして、ブッディ体と結びついたメンタル体の高位の喜びを知るであろう。そうしてI AM THATを知り、THATに酔い痴れるだろう。没頭するだろう。知ることも考えることもない放棄された瞑想状態である。所有物が一切存在しない白の状態である。黒焦げではなく白く灰になった後の意識である。ここにXたちの哲学の、つまり万物の根源への帰趣がある。つばめが高い空から降りてくるのである。

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