マインドの主

人間の三つの低位様相と魂の間の断絶に橋を架けることが教育の目標になるまでは、正しい方向における進歩はわずかなものであり、その場しのぎのどのような方策も、現代の必要を満たすことはできないであろう。高位マインドの存在事実が認められ、低位具体マインドが高位マインドの僕として果たすべき役割が同じように認められるまでは、物質的なものを具体化する能力――その能力には……人間の低位欲求を満足させるものを生み出す傾向がある――は過度に発達していくであろうが、人類は真に思考するようにはならないだろう。今のところ、マインドは低位の欲求性質を反映するだけで、高位のものを認識しようとはしていない。

正しい訓練方法が行われるようになったとき、マインドは発達し、魂を反映するもの、つまり魂の媒介になり……低位性質(情緒的、メンタル的、肉体的な性質)は、単なる魂の自動的な僕になるだろう。このようになったとき、魂はマインドを媒介として地上で機能し、そうすることで魂自身の道具である低位マインドを統御するようになるだろう。……現在、訓練されたマインドが人間にとって可能な最高の表現とみなされているのは、残念ながら本当である。それは完全に一個の人格と見られており、マインドが肉体脳を使うのと同じように、マインドを使うことができるものが存在しているかもしれないという可能性は見過ごされている。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.44

瞑想自体より、瞑想方法が人の注目を奪いがちであるのは、人が依然として人として瞑想しようとしており、人が希求している低位の欲求性質(あるいは恐怖性質からの逃避)を満たすために瞑想を利用しようとしているからである。そのため、内的な探求や模索は低位マインドのレベルで発達が止まったままであり、地上では、その具体化する能力を利用して、人の低位性質を満たす便利なモノ、快適なモノだけがバランスを欠いて過度に発達している。そのため分離しており、個人が在り、その集合体として国家があり、個人が絶えず争うように、国家も絶えず争い、誤用された低位具体マインドの産物で互いを傷つけ合っている。人間はまだ思考しておらず、あらゆる問題の本質である低位性質を統御することよりも、低位性質に使われ動かされるだけの人形状態にある。このようなことを認識しながら生きている人間は、現状ではまだ少数である。

この少数派は、欲求があるなら欲求を満たすものに目を向けるのではなく、欲求という低位性質自体に目を向ける人たちである。恐怖があるなら、恐怖を消し去る何かに目を向けるのではなく、恐怖自体が何であるかを知ろうとする人たちである。彼らは出てゆかず、己れに留まる人たちである。そして、私たちのマインドが脳を道具として使用しているように、私たちのマインドを道具として使用するより高位の何かが存在することを認めている人たちである。このような人たちだけが、低位マインドで止まっている人間の発達を打ち破り、元来は神聖なものであるエネルギーを私的に誤用せぬよう、低位性質を高位性質に見合ったレベルまで高め、帰還の道を意識的に歩み、そうすることで真に思考できるようになり、知性は高位マインドを、ひいては直観を意味するようになり、低位マインドはそれらの神聖な道具として使われ、神の目的に沿った働きに焦点化したまま、世の中の低位性質に打撃を与えることが可能になる。これは明確にエネルギーとフォースの世界の話である。

政治も経済も、あるいは奉仕も福祉もうまくいってはいない。日々、私たちは苦しんでいる。私たちに必要なもの、その代表的なものは教育である。私たちは低位性質ではなく、低位性質の僕でもなく、低位性質を統御する高位我、つまり魂であることが教えられねばならない。瞑想は低位我から高位我へと橋を架ける。多くの人が橋を渡り、個人の苦悩から自由になってもらいたい。また他の個人という錯覚から目覚め、恐れや攻撃的な性質から自由になってもらいたい。そのためには、とにもかくにも瞑想で諸体の波動を高め、魂を認識できるようになり、その接触を強化し、融合しゆかねばならない。このとき、瞑想者が悪戦苦闘している低位マインドの忙しない動きは、魂である私たちによって自然に統御されるようになるだろう。なぜなら、そのときの私たちの意識において、マインドの形態を纏う動きは沈黙を妨害する苦痛を伴うものになり、魂と一体化していることが唯一、高位の流れを妨害しない自然体になるからである。これは形容しがたい美しさや素晴らしさに私たちを引き込むものであり、この意識を体得させるものである。

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