マインドの超越――魂の波動とその意義

安易な書物であれば、瞑想や真我探求を、「私は誰か」のように、自我でも頑張ってそれをやり続ければマインドは超越されると説くが、それは言葉足らずである。このような本に従う場合、「自我で頑張る」という、真我と逆のものを強化するという抵抗や葛藤へと導くだけであり、調和とは無縁の瞑想になる。これは、試してみた誰もが直面する事実である。結果、「私にはできない」という結論だけが自我をつんざき、「失敗」や「自身の無能」と解釈される。この種の本は、到達した者が書いたのではなく、到達していない他の自我が編纂したものであるゆえ、どうしてもその者の段階寄りに解釈された編み方になるのである。

「私は誰か」などのマインドの統御は、アストラル体の統御が進むにしたがい魂と接触するようになった者のみが出来るものである。言い換えると、パーソナリティーと魂が共同で作業できる者に限られる。書物は、ここを教えていないのである。だから初心者時代、私はマインドの統御は不可能であると思ってひどく絶望したものである。この文章から分かる通り、自我でやっていたのである。しかも、本を信じて、本が言うから、あるいは聖人が言うから、という理由で試していたのである。これは、まだ魂と自我を識別できていなかったことを意味している。

やがて、どのような本も私は信じなくなり、自ら見出すという決意に至った。こうして、内在の知恵だけに教えを請い、内なる本物にだけ従うという必殺技を習得したのである。これのみが自我への必殺であることを、完全にいまや理解しているゆえ、私は受け売りで話すことはない。しったかぶって話す者ではない。知らないことを話す者でもない。推測で話す者でもない。誰かを信奉している者でもない。知った者つまり魂から話すことができる。

これはいかなる自慢でもない。前置きである。マインドの統御とは、魂と個人が一致して、マインド自体に焦点を向け直し、それを持続させる集中によって可能になるものである。初心者つまり自我は、集中を自分で行う。集中しようと頑張る。これは自我のすることであって、自我の拡大にしか導かない。まず魂と一致し、一致した状態でマインドへと集中を固定する。ここには、いかなる自我の力みも努力もない。自我は、ただ魂の知恵を理解し、彼と一致して、その自然な流れのままに、外から内へ、客観から主観へ注目の焦点を転換させるという方向づけを行うだけである。それは魂の要求を汲み取り、意識的にパーソナリティーが魂とその流れに従うというものである。このとき、自己への集中は、かなり心地よいものであるし、あらゆる知恵がなだれ込んで来るゆえ、マインドが再び活発にならないように注意する必要がある。しかし、焦点がまたマインドに移った場合、即座に精妙な苦痛を感じるため、自然にマインドとの同一化は防がれるようになるものだが、最初は、意識的に魂が誘導する方へと方向づけるというパーソナリティーの助けが必要である。

「私は誰か」の「私」とは、マインドである。「私は誰か」と問うとき、「私」であるマインドに意識が向き、そこを透過したならば意識自体に意識が落ち着き、魂の意識に入らせる。「私は誰か」は、自我がすることである。つまり方向づけが分からない人のためにラマナ・マハリシが考案したものであるが、問題は、聞く人々が魂と接触しておらず、方向づけの意味がまだ分からないという点にある。本来、方向づけは、長年の瞑想の結果、本物の流れと自我という偽の力を識別した結果、自然に理解されるものであって、そこを経てない者に、いきなり方向づけを教えるということ自体が、ラマナ・マハリシを読むほぼ全員が失敗しているという事実が教えるように、無謀なのである。無知な者に、知恵が訪れた者が知る内容を概念で教えても無理なのである。なぜなら、魂とパーソナリティーの区別もまだできないのだから、努力なしに正しい流れと一致するということは分からないのである。

このようなマインドの統御は、第三イニシエーションの準備をしている弟子が理解しゆくものであり、ラマナ・マハリシの本を読むほとんど全員が、そのような進化段階にない。私が読んだときも、私はそのような段階になかった。だから悲観するところではないからそのまま聞いてほしい。私は決して絶望させるような話はしない。なぜなら、神はそのようなお方ではないからである。真我への道は、ラマナ・マハリシが言うとおり、私つまりマインドに直接向かうことでマインドを静め、そこへの集中を持続させることで超越するという、直接的な方法が最善というか、それしかない。だからラマナ・マハリシは、他の道はすべて遠回りだと言ったが、彼が見落としているのか何なのか分からないが正しくない点は、その「直接的な道」を辿れるのは、特定の進化段階に到達した後だというところである。最初からはできないことを、彼の本を読むすべての人が証明し続けている。

何人かは私の言うことを信じるだろう。何人かでかまわない。信じない人も、結局試してみてもできないのだから、いずれ耳を傾けざるをえないだろう。私が印象づけたい点は、順序があるというものである。ジュワル・クールは賢明にも、ベイリーの本を読めば自身の進化段階をある程度特定できるようにした。それはつまり、今の自身の目標が何かを教えるものである。第一段階のイニシエートが、第二段階のイニシエートの習得目標に挑むことは無理である。まず、魂と接触してください。そのためには、魂のエネルギーの伝導体になる必要がある。この状態になっている人は、672夜の読者にもたくさんいる。ベンジャミン・クレームは、魂のエネルギーについて次のように言っているが、これは正確な描写である。

あなたの魂は、魂自体の次元に存在しており、それが本当の我々なのです。我々は魂です。我々の魂は、ほとんどいつもモナド、霊の面に向かって瞑想しています。時折、その注目を転生している男や女である乗り舟に向けます。その時、魂は自身の反映であるところの肉体人間をエネルギーで覆います(オーバーシャドウする)。特に、乗り舟である肉体人間が伝導瞑想やその他の瞑想および奉仕の仕事に従事していたり、道の志向者や弟子やイニシエートであるような、発達した器である場合にはなおさらのことです。魂が降ってきて、エネルギーをその器に、メンタル界であれ、アストラル界であれ、エーテル・物質界であれ、あるいはこれら三つを組み合わせたものに、注ぎ込んできます。

それは何か頭の上に帽子を被せられような感じであり、ちょうど眉の上あたりまで降りてきます。頭の周りに、重い輪がはめられたような感じなのですが、それを頭の内側に感じるのです。

ベンジャミン・クレーム「伝導瞑想」p.90

ここまで彼は正確に述べたが、次が残念だった。それは、魂のエネルギーを伝導しているとき、「私が特に行うべき視覚化とか心の状態とかはありますか」という問いに対してこう答えている。

これらの時期に特別に行うべき視覚化とか、心の状態は特にありません。ただその出来事について認識するのみです。

「伝導瞑想」p.92

視覚化は必要ないが、このエネルギーに対してすべきことがあるのである。今、私がクレームと隣に座って話し合いをするならば、彼との間に意見の不一致がないことを互いに確認できるであろうが、この答え方は間違った認識を与えかねないものである。私が最初にこれを読んだとき、文字通りに信じたゆえ、魂のエネルギーを軽視してしまった。それで何年かは遠回りをし、無知を彷徨った。さんざんこのエネルギーについて調べたが、記述のある書物はジュワル・クールの著作を除いて見つからなかったし、何をすべきかを書いている者はなおさら皆無だった。つまり、第一段階のイニシエート前後の者が習得すべきことを書いている書物というものがないのである。それもあって、私は書いているのである。

より高い段階の意識からすれば、「ただその出来事について認識するのみです」というのは事実であるが、ここでは、初心者つまり第一段階のイニシエート前後である質問者に対して彼は答えているのだから、することがあるのである。彼(自我)は、自身の波動を、そのエネルギーと一致させなければならない。これが、ジュワル・クールがさんざん教えてきた「整列」である。魂と、我々の諸体(肉体・アストラル体・メンタル体)を整列させるためには、魂のエネルギーと一致して振動し、そのようにして融合し、そのようにしてのみ魂意識に入ることが可能になるのである。こういうことを教えている者が世の中にいないのは、この段階にすら到達していない者しか教えていないということである。しかし、これは融合の基本であり、より進歩した未来においては人々の常識にならねばならないものである。これについて分からないことや確かめたいことがある人は質問してください。

こうして融合へと至り、我と魂が同じ意味になったとき、初めて道を辿ることが可能になる。自我では辿れないが、自我と魂が一つになったとき、「道を辿る前に道そのものにならなければならない」というオカルトの格言の真意が知られるだろう。このときのみ、一体となったパーソナリティーと魂は、客観から向きをかえて、主観にのみ向かうことが無努力で可能になるのである。これが喜びの道である。世の教えは未熟な自我の教えであるゆえ、努力だとか修行だとか言うが、そのような抵抗は霊的な道にはないのである。「I AM」がそのとき事実である。その存在という当たり前の純粋意識において、いったい誰が努力するのだろうか。もはや誰もいないのである。もしくは、すべてが私である。これが至福の道である。これが賛美歌意識である。

以上を理解したならば、当然出てくるであろう次のような質問――「どうすれば魂のエネルギーを引き込むことが可能なのか」という問いについて考えねばなるまい。これに関しては、何かをした結果、魂のエネルギーが来るようになった、という経験は私にはない。物心ついたときには魂やその他のエネルギーの伝導体だった。しかし、小学から高校までは、破壊的に生きたゆえ、このエネルギーが入ってくることはなくなり、そのことも忘れていた。

内容が内容であるため詳細は言わないが、後に事件に巻き込まれ、神秘的な助かり方をした。周りは殺された。それで長々と入院していたが、やがて正しく真面目になるチャンスだと考えるようになった。というのも、神秘的な体験について考えざるをえず、またこの世ならぬものを受け入れざるをえなかったからである。退院後、大学に行くというかたちでその地を去り、誰も私を知らないようなところへ行き、完全なる孤独を目指した。誰とも関わらないようにし、毎日、誰とも話さないし話す人もいない生活を続けた。近づく者は誰であれはねのけた。大学では主に図書館で過ごし、本という本を読んだ。すると、世界の名著とか、世に名を挙ぐ書物のいずれもが、非常に幼稚であることに気づいた。小難しく書いてはあるが、内容が浅く薄いのである。馬鹿馬鹿しくなって読書はやめたが、授業の合間、暇なときは図書館をうろついた。

ある日、インド哲学などという、通常であれば侮蔑的にスルーするようなコーナーに立ち止まることにした。適当な本を一冊とったところ、それがクリシュナムルティだった。――「自我の終焉」。書物で初めて衝撃を受けた。また、生まれて初めて尊敬に値する人物を発見した。これほどの者が実在したこと、そして書かれている内容に、魂が震えた。その後、霊的と思われる本はあらかた読んだが、クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、アリス・ベイリーだけが残った。あとは偽物か、段階が低いか、不要なものと感じた(ブラヴァツキーやヨガナンダなどは除く)。こうして、家で静かにこのような本を読んでいると、子供のときの、あの魂の波動がまた降りてくるようになり、しかも一日中それが続くものだから、静かにして一致せざるをえなかった。すると、波動はやや弱くなり、日常生活を数時間は自我で送ることができる。そして波動が強くなり、また静かにして魂と一致する。この繰り返しだった。そして、そのうち融合した。

この話の要点は、正しくない生き方をしていた者が、正しい生き方を目指すようになり、実際にそのようにしたということ、そしてその中で正しい書物のみを読み、学び、霊的な方向に人生が定まったとき、伝導が復活し、魂が降ったというものである。これは、秘教的には第一イニシエーションに関する性格構築の時期に相当し、正しく善い人間であることを目指す時期である。と同時に、霊的な学習をし、なぜ生きているのか、という答えとその意味や意義を理解する時期である。そして、賑わしく騒がしい者たちとは縁を切り、また己の騒がしい部分とも縁を切り、静かで落ち着いた、感情的でない生き方をし、知性を用いて常に平常心で揺れ動くことなく自己統御し、ただ生きて死ぬという無知の人生ではなく、本物を見出すという最高目的へと生きるという決意と覚悟をあらゆる人生の場面で証明し、これこそ滅私奉公という生き方が確立されたとき、人々は伝導体になり、最初に魂のエネルギーが頭部に流入するようになる。ひとたび伝導体になるや、エネルギーとフォースの違いが分かるようになるため、あらゆるエネルギーに反するフォースに対しては、その魂のエネルギーを適用すればいいということが分かり、この世の問題は、結果の世界ではなく原因の世界で扱われるようになり、また解決されるようになる。よって、それまで問題であったことは問題ではなくなっていく。

問題ではなくなるとは、もはや関係がなくなっていくということである。このようにして三界からの霊的孤立が始まり、内なる天の御国が開示されるようになるのである。したがって、まだ魂のエネルギーが降りてきていない場合は、私がしたような生き方を実際に人生で証明してください。いくつかテストがあるでしょうが、惑わされず、確固として何が目的であるかを忘れない生き方を貫いてください。そして日々、瞑想に邁進するということです。すでに魂と連結しているような人は、引き続き、瞑想で一致を続けるだけです。最終的には、マインドを超越しなければならず、それは最初の方で書いたとおり、魂と共同で主観に向かうという自然な集中が求められます。しかし、この段階にある人は672夜を読んでいないであろうから、この先のことを書くことはおそらく不要である。

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