ヴィパッサナー瞑想者との対話

ヴィパッサナーは『雑念を止める』でも『雑念に流される』でもなく、第三の道として『ただ観察する』ことを提案します。このアプローチに対し、あなたの『高位の力』という概念は、それを補完するものでしょうか? それとも、それに代わる新たな枠組みを提供するものですか?

観察しているのは誰だろうか。観察者が誰であるかを問うことで、観察そのものの性質に対する洞察が得られる。この問いが重要なのは、観察者の意識段階が観察の効果を決定的に左右するからだ。たとえば、まだ高位のエネルギーと接触していない場合、観察はフォースに対するフォースの適用に過ぎず、その結果はフォースの強化にとどまる。哲学者はそのような典型である。理論的思索を繰り返した末に行き詰まり、何も得られないまま自滅していく。しかし、高位のエネルギーを用いることができる段階では、観察はエネルギーのリズムを適用し、フォースをエネルギーへと変性させる科学的行為となる。

ヴィパッサナーでは観察そのものが主体性を超えるプロセスであるとされ、観察者の段階を分けません。この違いはどこから生じるのでしょうか?

ヴィパッサナーにこだわらずに聞いてほしい。個人の精神内における観察が、フォースに対するフォースの適用に過ぎず、その結果としてフォースが強化されるだけであり、波動的には上昇せず、同一化している質料が意識の基盤であるために意識に重大な変化が起こらない、ということを理解できるだろうか。低い波動を持つものに対しては、より高い波動を持つものを適用する必要があるという点について、どの程度認識しているだろうか。

観察が自己完結的である場合、その限界がフォースの強化に留まるという点は理解しているつもりです。また、より高い波動を適用することで意識の変容が可能になるという主張も、理論的には整合性があると思います。しかし、ヴィパッサナーの立場からは、観察そのものが執着や拒絶を解消し、内在的な自由をもたらすとされています。そこで質問です。ヴィパッサナー的な観察が『ただ気づき、手放す』プロセスを通じて振動率を高める可能性を否定する理由は何でしょうか?

この質問は、フォースに対する理解の欠如から生じている。もし、高位のエネルギーそのものとして雑念(フォース)に接近するならば、その観察は執着を解消し、内在的な自由を瞬時に実現する。しかし、高位のエネルギーを使用できず、自我による単なる自己観察にとどまる場合、本質的な――すなわちエネルギーの性質における意図された変性――は起こらない。ただし、それが全く無意味であるわけではない。なぜなら、その段階では個人的な観察以上のことができないからである。

問題は、観察者が観察されたものに巻き込まれず、ただ観察し続けられるかどうかにある。要するに、来たりては去り行く現象に対し、関与せず、巻き込まれない態度を維持できるかが鍵となる。このような態度を保つには、通常、それなりの瞑想経験が必要である。

ならば初心者がその段階を超え、高位のエネルギーを適用する観察へ移行するためには、どのようなプロセスや訓練が必要でしょうか? また、ヴィパッサナーが提唱する『ただ気づき、手放す』プロセスを通じて、一定の段階で高位のエネルギーに到達する可能性を認めるなら、それはどのような条件下で可能となると考えますか?

訓練という概念は、フォースしか理解できない段階に属する。つまり、「する」と「在る」の違いが分からないために、「訓練する」必要があると錯覚しているのである。もし、高位のエネルギーと多少でも融合しているならば、その人は絶対に何もしない。訓練とは、フォースに対するフォースの適用に過ぎず、それはただ衝突や葛藤を生み出す。

「ただ気づき、手放す」という状態が起こるのは、思考というフォースに対して、それよりも高い振動率を持つエネルギーが適用されたときだけである。したがって、まず魂との接触が前提となり、魂のエネルギーの伝導体として機能できることが必要である。そのためには、魂のエネルギーを知覚し、それに反応できる諸体が求められる。通常は、肉体の浄化から始まり、それに伴う時期、もしくはその後に瞑想が開始される。この段階の瞑想は、感情や欲求といった情緒性質、すなわちアストラル・フォースに対する啓示と力をもたらす。そして、さらに進むことで、思考のようなマインドのフォースに対して、これまで学んだエネルギーの適用が可能となる。

これらは常に「する」ことや「訓練」ではなく、「ただ存ること」や「ただ見ること」と結びついている。したがって、観察者の意識段階にすべては依存し、意識段階はその者を構成する質料の等級に依存するのである。

では、魂との接触を経験するためには、具体的にどのような準備や実践が必要なのでしょうか? 特に、初心者がそのプロセスを始める際に意識すべき最初のステップについて教えてください。

必要なのは、肉体の浄化とアストラル体の浄化である。熱心に非利己的な瞑想を続けている人は、肉体の浄化をそれほど気にする必要はないだろう。彼の問題は、おそらく欲求や感情といったフォースを統御できない点にある。例えば、自己嫌悪や自己憐憫といった苦悩や悲哀に対して無力であることが挙げられる。

私自身、かつて犬が死んだときに悲しみを感じたが、瞑想を通じて死の概念が取り払われた後、別の犬――途方もなく愛してきた犬が死んだ際には、魂がスムーズに抽出されるよう手伝っただけで、何の感情とも関係しなかった。多少の悲しみは生じただろうが、関係することはなかった。このように、個人的な苦悩や悲哀、自己劇化しようとする情緒性質から自由であることが求められる。

この自由は、無害で正しい生活と無欲で正しい瞑想を実践することで、自然に達成されるものである。結局のところ、初期段階では様々なエネルギーを知覚することはできないが、正しい生き方が実践されるとき、すでに正しいエネルギーの分配が起きているのである。後に、それを意識的にできるようになる、というだけの違いである。

ヴィパッサナーでは『今この瞬間』の体験に気づきを持ち、観察を続けることで内在的な自由を得られるとされています。このアプローチは、特定の概念やエネルギーの操作を必要としないシンプルさゆえに、初心者にとって非常に取り組みやすいものです。一方で、あなたの説明では、魂との接触や高位のエネルギーが重要な役割を果たし、それによって正しいエネルギーの分配作用が起きるとされています。これらは、私の理解を超えているものだと言わざるをえません。よって、私は引き続きヴィパッサナーの教えに基づき、現象を観察する際に「ただ気づく」ことを続けていきたいと思います。

「ただ気づく」とはどういう状態を指すのだろうか。それは自我ができることなのだろうか。

「ただ気づく」とは、気づきのなかに評価や判断を入れないことだったり、現象へ執着したり、あるいは現象を排除しようとしないこと、つまり、起きている現象が自然に現れては消えるプロセスをそのまま見ることを指していると理解しています。

あなたにそれが本当にできるのだろうか。できないからこそ、秘教的なアプローチに興味を持ったのではないだろうか。かつてクリシュナムルティを初めて読んだとき、ただ気づいていようと試みたことがある。しかし、私にはできなかった。その後、魂と融合する段階を経て、彼が語っているのはその意識から発する状態のことだと理解した。

したがって、あなたのアプローチは、自我を超えた高位の意識状態を模倣しようとするものに過ぎない。それが完全に無意味だとは言わないが、依然として目的や動機に囚われ、そこに執着しながら試みられているように感じる。このような点について、正直な省察が必要だと思うが、いかがだろうか。

あなたが述べた、『ただ気づく』という行為が実際には高位意識の状態に依存しており、自我による模倣にすぎない可能性があるという洞察には、大いに考えさせられます。特に、『ただ気づく』という行為が、魂と融合した意識から自然に発現するものであるならば、私が現在取り組んでいる観察のプロセスは、あくまでその高位意識に到達する準備段階に過ぎないのかもしれません。では、質問させてください。もし、私のような初心者が、ただ気づくことに取り組む中で、自我の限界や執着に気づき、それを超えるための道を模索するとすれば、魂との融合や高位意識への移行は、どのような形で徐々に可能になるのでしょうか?つまり、私のように現象を観察し続ける者が、高位のエネルギーに触れるための最初のきっかけは、どのようにして訪れるものなのか、お教えいただけますか?

魂に関して言えば、それはメンタル界の高位亜界、つまり上から三つ目の抽象亜界の波動が頭蓋内に流入し、その感覚を得ることが初期段階で起こる現象である。このエネルギーは、頭部のチャクラ、すなわちフォース・センターの発達に伴い、正しい形で利用できるようになる貴重なものである。

瞑想生活を通じてこのエネルギーが活性化されると、執着や苦悩と呼ばれるフォースに対して直接接触し、それらを観察することが可能になる。そして、その結果として即時の変性が起こり、完全な心の平安と静けさがもたらされる。

この平安とは、エネルギーすなわち霊と、諸体のフォースすなわち物質との調和状態のことである。これが真の平和であり、この内的平和によってのみ、人類の平和は達成されるものである。

そうではなく、私が興味を持っているのは、その過程の最初の一歩をどのように踏み出せばよいのか、という点です。例えば、瞑想生活の中でどのように頭部のチャクラの発達を意識し、エネルギーの流入に敏感になることができるのでしょうか?

そのような霊的欲望のために生きている自分を観察することによって。あなたの目的は、実際のところ、個人的なものである。しかし、瞑想は個人を超えた霊性を扱うものである。この意味で、あなたの瞑想は、脳とマインド間のものに過ぎず、マインドに対する魂の作用に関するものではない。このような霊的野心が、あなたの瞑想生活の正しさを損なうものであり、これまでの失敗の原因である。つまり、あなたは自分を観察してこなかったのである。

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