一なるものの奇跡

「上にあるが如く、下もまた然り(As above, so below)」と言うが、元のエメラルド・タブレットでこれに該当する部分の最後にはこうある。「それは一なるものの奇跡を成就するためである」と。この部分の逐語的な訳を紹介すると以下である。

下にあるものは、上にあるもののごとくであり、
上にあるものは、下にあるもののごとくである。
それは一なるものの奇跡を成就するためである。

私はこう言いたい。「上にあるものを知ったとき、下と上を調和させるべき意味と意義が理解される。それは、一なるものの奇跡を成就するためである。人間の過ちは、上にあるものと下にあるものが異なることであり、これに気づいていないことである」と。

下に生きるとき、我々のような低位我意識である。上を知ったとき、高位我意識のなかで、「一なるものの奇跡」つまり神の計画を成就するためには、上にあるものと下にあるものとを一致させなければならないことが理解される。我々の瞑想が行っていることは、下を上に一致させることである。上が何であるかを知るがゆえ、上に下を合わせるべき意味と意義を理解し、知った上で内なるエネルギーの科学に身を捧げることが、第三イニシエーションまでに人間が行うべきすべてであり、あらゆる真の弟子やイニシエートはこれを意識的に行っているか、完成し終えたかのいずれかである。変性とは、下を上に一致させることである。変容とは、下が上に一致したときに起きることである。ならば、上を最初に知るべきなのであり、換言すれば、上を知らない者は下ですべきことも知らないのである。道を辿る前に道そのものになっていなければならない。最初に上でなければならず、その後、下(物質)に条件づけられていた中間の者(魂)が、上(霊)が行っている仕事に着手し始める。これが真の平和の道である。


人間は、瞑想を通して上を知る。上を知ったあと、下が何であるかを知る。この言葉の使い方に注意してもらいたい。私は、我々の無知の原因が、上も下も両方知らないことだと言っている。安易な者は、下を肉体とか自我とか理論づけて納得しようとするだろう。それは上と下を知らないからである。下は、人間とその世界においては、上に抗っている。これらはすべて、科学がエネルギーと名前を与えているものの、もっと精妙なレベルの話である。肉体や精神や自我意識といったものは、下に向かっているエネルギーと同一化したときに現れる結果であり、上を知った者にあっては関心の対象ではない。結果という仮象を、進歩的な者は無視すべきである。私は神秘的な者と言わずに進歩的な者と言った。我々が見せられている結果の世界ではなく、その原因の世界、エネルギーとフォースの世界、神の意志と、神の意志に反抗する意志を理解せねばならない。これは専門的に霊という神の第一様相の話である。それは意志と力の話であり、霊のさらに第一様相であるアートマ的な話である。この意志の重要性に気づくために、我々はそれを理解することを可能とさせる意識、つまり神の第二様相の認識に着手すべく瞑想で学んでいる。しかし魂と接触し、魂と融合し、魂を介して上であるものの意図と意志を知ったならば、下を上に合わせ引き上げることで、下を助けなければならない。これを意識的に行う者が、救世主である。我々がいま自分と思っているものは、この神性力の媒体である。この媒体を通して、意識的に、下に働きかけるのである。これが真に在るべき食物連鎖である。


初心者は、上に到達すれば完成だと思っている。上を知ることはスタートでしかない。上を知ったとき、上になったとき、上で在ることが可能になったとき、道に入った者として、イニシエートと呼ばれるのである。それは霊的な世界の新参者を意味している。もし上を知って終わりならば、”上に行った者”は誰も下を顧みないだろう。「下とは過去のこと」と言いのけるだろう。しかし言わないのはなぜか。常に上が下に働きかけているのはなぜか。神が誰をも見放していないのはなぜか。我々を含む一なるものの奇跡がまだ成就していないからである。下とは、我々各々も含まれている。まだ上でない下が存在するのが現状であるなら、下の性質を(上を通して)よく知り、上から下への働きかけに対し、絶えず邪魔にならないよう努め、絶えず上であるように努めなければならない。すると、その者の意識においては、下にあるものが、上にあるものになり、個我においては完成が達成され、ゆえに個我つまりエゴである魂は破壊され、輪廻の過程と課程は終了し、一なるものに還り溶け込むのである。しかも、下で得たものを携えたままに。


注意すべきは、以上の話が、人間の意識に語られる以上、分離した視点での説明を余儀なくされているという点である。それは物事を分かりやすくするとともに、その視点の段階ですべきこと、知るべきこと、行われるべきこと、起こるべきことを指し示している。難しくならないようにしなければならない。そのためには、一時的に真実ではないものを通して語られる必要がある。下と上の概念のように。下も上もないと言えるのは、下と上を統一した後である。

重要なことを再び述べよう。我々は上を知らないから下を知らないのである。下と同一化した個我の観点から、「どうすればいいのか」と途方に暮れるのは、上が開示されるほどまだ瞑想的ではないからであり、ここには誰の責任もない。あまり使いたくない言葉だが、運命、定め、そしてそれらを支配する法則がある。「運命と私は関係ない」と言えるようになるのは、下と上を調和させた後である。それまで――つまり上が下を支配するようになるまでは、個人的な意見、願望、希望、執着といった、いわゆる煩悩を満たそうとさせる条件づける力に対しては、諦めるか耐えるかしかない。こうして個人的なあれやこれが希薄になったとき、上が徐々に開示され、自分が下ではなく上であることを調和の中で知り、それまでの個人的な願いよりも、神からのお願いの方が重要であるという認識が芽生えだす。個人は神の要請に従って「自ら」を犠牲にすることを喜んで選択し、個人の意志は神の意志に溶けて消え去るようになる。こうして、自我意識を彼において可能にさせていた内部の原因つまり「下」は幻影である彼とともに消滅する。そして、消滅した形態に閉じ込められていた生命すなわち「惑星の囚人」は解放され救済される。これが我々の奉仕である。

下に条件づけられている者は、したがって奉仕の意味は分からない。だから現象という結果の世界で、誰かや何かのために奉仕することが奉仕だと思っている。道に入る前の若い魂の場合なら良いことだが、道を志している者にこのような考え違いは許されない。奉仕は、結果の世界で自分が行為者だと思ってやる自己欺瞞ではない。神が奉仕者である。自分を個人とみなすような知的怠慢は許されない。神と融合し、神の奉仕を知り、それが何の目的のためであり、どのような計画が青写真としてあるのかを知り、徐々に、ゆっくり、条件づけられた怠慢を、休息を知らない神の奉仕へと近づけていかねばならない。これは簡単なことではない。狂信的になって身を持ち崩さないよう、個人の常識とバランス感覚も要求される。だから、私はしばしば休息や娯楽、つまり危険の回避を時折り差し挟む必要性について書くことがある。まだ上との一致度が浅い場合、言い換えると下からの条件づけで道を辿ろうと錯覚している場合、自我で一生懸命になりすぎて、おのれを破壊してしまう者が昔から絶えないためである。発達や進歩はゆっくりとしたものである。上昇したかと思えば下降し、大局的に見れば螺旋的にしか上昇しないもの、つまりある種の繰り返しを伴うものであることを知り、過ぎたるは及ばざるが如しの意味を自身に適用し、危険を伴わない道、懸命ではなく賢明な道、苦痛が決して伴うことのない道を歩まなければならない。このような理解と判断もまた、道で訪れるテストの一つでしかない。すべてを首尾よくクリアするためには、まずは魂という内なる覚者、沈黙の師を見つけねばならない。それまでは、外部の先人の教えに従うことが賢明だが、この世で真の「外部の先人」を識別できる者は稀である。その原因つまり責任であるところのものは、常に自分自身である。


媒体はこの辺で記事を終わろうと考えるが、まだ許されない。この世では、この世の家族がおり、またこの世ですべきことがあるが、まだ神はそれを許されない。したがって長文に理解をいただきたい。……

理解したので書く。道は義務だが、義務感を伴う義務の遂行は、義務への抵抗であり、必然的に苦闘の道である。我々の道とは、あらゆる解放とあらゆる救済を含む喜ぶべきものであり、何らかの達成や進歩のためではない。それらもまた付随的なものである。よって、道を正しく歩むテクニックの一つとして、もしくは道を正しく歩んでいるときの証拠の一つとして、”感謝”があるということを述べたい。

たとえば、就寝前、私の妻の話をするならば、「今日も一日ありがとうございました」と私に言い、一礼してから自身の寝室へと帰っていく。これは強いられたものではない。感謝があるとき、人はそれを表現せざるを得ないのである。この感謝がどこから来たものかの識別が重要である。個人的に快適で幸福なときは、誰でも感謝するが、感謝させるフォースはアストラル色の強いカーマ・マナスである。もし源が魂であるならば、この世の雨風、不幸、嫌なこと、きつく辛いこと、これらに左右されずに常に感謝がある。これを逆に考えて応用できることを知るならば、道を歩むときのお守りのような役目を果たす。それは自己防衛のための作った感謝ではなく、正しいときのバロメーターとしての感謝である。悪いものを見るのではなく、良いものを見て、そこに感謝を培うことは、後の健全な発達を引き起こすための礎を築く。ゆえに、あらゆるものに感謝できる姿勢を培う者は、発達がはやいだろう。その逆も然りである。不平不満、批判、怒り、有害な波動、これらに生きるときに感謝などない。感謝に波動を合わせることは、神に波動を合わせる近道である。後に発達したとき、我々が知るような感謝というものはなくなり別の高位のものに取って代わられるであろうが、途中まではお守りとバロメーターになる。その日に嫌なことが起きても、就寝前にベッドで、その日という学びに感謝できる精神状態であるだろうか。それとも別のものに惑わされているであろうか。間違った精神を正したいならば、あらゆるものに善き点を見つけ、感謝できる癖をつけることである。感謝という波動に瞬時におのれを合わせられる媒体に磨き上げることである。すると上が分かるようになるだろう。上が我が内に培われ育まれるようになるだろう。上と自分の区別がつかなくなるだろう。このようにして、今は感謝という例で説明したが、上を知るまでは、上に由来するような波動と一緒に生きれるよう、自己省察すべきである。もしこれを実践するならば、思った以上に、至る所に感謝できるところが多いことに気づくだろう。言い換えると、なぜ今までそれに気づかなかったのか、その理由も明確になり、おのれの考え違いにつくづくハッとなり、いまや感謝できる自分、感謝に満ちた精神というものに喜ぶようになるだろう。すると世界は美しいものになる。自分が美しいからである。すると、嫌なことがあっても、あるいは人にひどいことをされても、許せるだろう。あり余る喜びと無限にわきでる愛ゆえに、兄弟姉妹の可愛そうな悪行についての自身の態度は度外視されるようになるだろう。

以上、最後に、誰にでも実践可能なことを書いた。知識を得ることはそれだけ責任を重くすることであると言って、聖人は常に注意を怠らなかった。あまり本を読まないよう注意する聖人も多い。また、不作為の罪を霊的な意味で教えられることもある。よって、感謝については実践しようではないか。良いところを見るということである。悪いところを見ていても仕方がない。何の意味もない。たとえば学校でいじめられているとしよう。いじめる者は、自分にとって一つも良いところがないとしても、魂的に見るならば、そのような役割を引き受けてまで自分が知るべきことを教えてくれたという点を見逃すべきではない。瞑想で前世の知識が回復する場合がある。たいていその種の話は妄想だが、魂のレベルに在る者であれば起こりうることではある。そのとき、完璧に身に起きたことの正当性を知るだろう。カルマというものが、寸分の狂いもなく現象として返ってくることに驚くだろう。それは報復ではなく、理解のためのものである。だから理解したならば、自身の悪い表現を繰り返すようなことがあってはならない。いくつか前の行でもう書かなくていいと私は言われているため、記事はこのあたりにし、瞑想を通して、善き点にのみ注目できる美しさに今日も目覚めいけることについて、感謝して終わりたい。

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