ある複数の方々が困った状況に陥っており、助けを求められた。助けるためには、その過程で私の肉体がいくらか損傷することを覚悟せねばならない類いのものだった。カルマ的にいくらか考えることはあったが、「上の許可」との照合の結果、可能な範囲で助けの手をさしのべさせていただいた。結果、助けることができて喜びを味わうと同時に、肉体的には苦痛を味わうことになった。それは医者が治せる類いのものではなかった。せいぜい、麻酔を打つか、打ちながら安静にし回復するのを待つよう指示されるだけである。しかし、幸運にも私は瞑想者であった。内在の癒やし手を知る者にして、その癒やし手そのものである。したがって苦痛を生み出す不具合の箇所を認識したまま瞑想に入り、そのまま一体性の境地すなわち森羅万象の根源である真我と融合した。そこは、マインドを通して知覚される世界ではなく、マインドを通さないがゆえに理解される領域であるため、いかなる分離もなく、したがって肉体的な損傷による苦しみといったものも知覚されることはない。それだけでも瞑想と一体性のテクニックを習得する価値はあるが、この根源である真我を知ることは、それ以上のものである。おそらく数分、一体化し、再びマインドをいわば起動させて肉体感覚を知覚できるこの世の意識に戻したのだが、損傷した箇所はすでに癒えているのである。
このような治癒を、私が伝導媒体を通して他人に施すならば、彼や彼女は驚愕するであろうし、奇跡だと言って泣きもするだろう。味わい続けた途方もない苦しみが、完全に消えてなくなるのだから。それは普通は誰も信じない話である。
私が一体性というものを瞑想で知り、存在すると見なしてきた一切の仮象の根源が私自体であることを見出し、愛に満たされ、霊的至福というものを与えられたあと、日常生活を通して、媒体に癒やす力が流れ始めたことを理解した時期があった。そして実践を通して、神のみが唯一の癒やし手であることを深く自覚し、その無限の慈悲の力に平伏した。免疫力や治癒力と呼ばれるものの源が自身であることを知るとき、どのような病も怪我も、至福に置き換えられ、そして置き換えられたが最後、もう癒えているのである。
ならば私の願いは一つである。まだ自身を肉体だと見なしているすべての意識存在が、無知の殻を破り、神というこの源へと帰ることである。人々は一体性という概念をどのようなものとして描いているのであろうか。一体性という概念は、そもそも分離した視点から描かれたものであることを、その文字自体が示している。分離して物事を捉えるのは、マインドである。その背後に魂が在る。純粋な魂すなわち純粋な意識は、そのさらに背後におられるモナドつまり霊と直通するものであり、このとき、実在するもの、実際に存在している本物は、我すなわち神のみである。これは一つの生命である。これだけが生きており、これだけがすべてのものの命である。
一体性は、分離したマインド意識が描くものであり、実際は最初から一体である。生命という真に生きている実体は、意識のように個別化されるものではない。私の意識と彼や彼女の意識は異なるが、私の生命と彼や彼女の生命が異なるということはありえない。意識は、形態に依存している。頭部から流入する魂のエネルギーが何をしているのかを確認するならば、形態の質料に働きかけていることを発見するだろう。どのような荒くれ者も、この母の抱擁によっては静かにならざるをえない。我が子を愛する母の慈悲と愛と思いやりが、獣のように荒み変じた暴走する波動を癒やし、高め、錯覚から解き放ち、神の愛を教えるのである。魂はまことに愛の伝道師である。そして、愛と奉仕は同義語であり、この愛を知らぬ奉仕は当然のことであるが個人的な奉仕である。愛は分離を知らない。したがって治癒という過程をマインドを通して分離して見るときも、癒やす力は愛なのである。この世では、愛で男女が結ばれ一体化するが、我々は内なる神の愛を知るがゆえに、愛そのものとして、すべてのすべてと結合し癒やすものである。性は、ただ男女という形態の違いを意味するだけではない。愛は、惹かれ合う男女の性的欲求の引力を意味しているのではない。陰と陽の結合、フォースとエネルギーの一致、悪と善の歩み寄り、これらを理解することで、神の意志が魂の意志を通し、祈りにも似た愛の伝導として、我々の諸体に働きかけていることに、我々は感謝することができるようになり、途方もない神の愛に平伏したならば、個人の意志ではなく、神の意志に、意識的に生きねばならないのである。これだけがあらゆる困難に対する解決法である。
分離した人間は裏切るが、積み重ねた瞑想だけは裏切らない。魂が形態とその質料に働きかけ、諸体はゆっくりと漸進的に浄化精製され、神聖であるものを知ることを可能にさせる意識がやがて開示される。簡単に言えば、瞑想し、諸体の波動的精製に取り組み続けさえすれば、進歩を阻むものはない。問題なのは、間違った瞑想がどのようなものなのか、最初は分からない点にある。瞑想は、やってはいけない危険なことは書物などから知識で得るべきだろうが、瞑想そのものは、その瞑想という実践から学び取るものであり、決して他人に教わるようなものではない。これは喜びに満ちた独学である。霊的な何かを達成したいという低次の欲望から行うのではなく、そのような欲望は完全に諦めて、ありのままに瞑想で瞑想自体を見なければならない。そこに、どのような力みがありうるだろうか。それは極限のリラックス状態である。最初は間違いを繰り返すだろう。しかし間違いには必ず苦痛が付随する。その苦痛により我々は正しい瞑想から逸れていることを知ることができるし、その苦痛をただ見ることで再びエネルギー的に本流へと引き戻すことができる。やがて、このような方向づけを意図している原因が魂の意志様相にあることに気づくだろう。つまり、瞑想できるのは魂だけであり、自我にはできないということが分かったならば、本当に分かるならば、おのずと自我というものは静かにならざるをえないのである。自我は、自身が何の役にも立たず、何のプラスも生み出さない架空なるもの、想像上でしか存在しないものであることを理解し、想念やマインドの背後の魂におとなしく従うことだけがプラスであることを見出すようになる。これが太陽瞑想である。肉体、アストラル体、メンタル体という衣服を、順次、自発的に脱いでいく光と熱と火の過程、そして裸となり、無所有なる無色の無垢となり、自我は魂の光の中で消えてなくなる。そのとき、
人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在――時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在――についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根ざしている。
イニシエーション p.113