質問の要点を抜粋する。
何故この人生をやっているのでしょうか。何故この自我とやらを出現させて、それから目覚めなければいけないコレをやっているのでしょうか。このことが少しでもわかったらまた前進出来そうと思ってる自分がいます。「私と神は同義語」であるなら、なぜこれをやっているのだろう。どうしても、理論上だけでもわかりたい自分がいます。
どの観点から答えようかと最初に思う。分離させる想念の、つまり人間が理解するための概念で、ジュワルクールのような説明を試みるべきか、それとも、「前進」させ、錯覚を溶かし、このような質問から自由にさせるような話をすべきであろうか。もし秘教的に解説するなら、非常に難解で壮大な長文を書くことになるだろう。それをシンプルにまとめたとしても、必ず、シンプルにする過程で抜け落ちるところがあるため、「何故」がつきまとう結果になるだろう。
例えば次のように答える。神の計画がある。神は計画の初期段階で、粗悪な材料を用いる必要があり、我々を含めたすべての顕現を、その悪を秘めた材料で構築した。その悪を贖い浄め、完全に神と一致するレベルにまで高めるには、神そのものが森羅万象という媒体――鉱物、植物、動物、人間といった姿かたちで、いわば多神として顕現し、大いなる犠牲を払い、永劫とも呼ぶべき時間、進歩することもなく、最初に用いた材料に備わる悪を浄めるという奉仕のためだけに、自ら忘却に入ることを選択されている。人間という化身であれば、何万回という人生を通して、時には男、時には女、時には罪人、時には善人といった舞台や演出の中で経験を積み、もとより備わる悪と善を識別できるようになり、彼や彼女を形成している悪質な材料と真の自己が異なるのだということを理解するまでになり、意識的に、意図的に、宿題である自身という三重の体の材料を神と一致するレベルにまで磨くということを、多神を通して行っておられる。神の計画を、無数の神が遂行しておられる最中である。それは惑星レベルの話である。
このような文章の要点は、神しか存在していないというものである。人々が「私」と呼んでいる感覚の背後に、当の私――生命自体が在る。神と生命と私はどれもこのとき同義語である。それはこの世の見た目の物のように、分割して捉えられるようなものではない。客観は多神だが、主観をつきつめれば一神である。「これをやっている」のは神であり、我々は存在していない。我々が見たり、感じたり、存在すると思っているものは、実際の存在ではない。偽物と本物を識別し、絶えず本物だけに生きることが可能になるとき、すべては神であり私である。この意識領域は、人間が知らないが次に知るべき領域であり、それはこの世の快楽とは比ぶべくもないばかりに美しく素晴らしいものである。この本物意識によってのみ、すべての人間の苦悩は消し去ることが可能であり、すべての人間の問題から自由になることが可能である。したがって自我は、瞑想を通して真我を知ることだけが重要であって、この世で必要なことはそれ以外にはない。つまり神の計画と目的以外に重要なことはない。
私が生まれて最初に苦しんだ疑問が、「なぜ生きねばならないのだろう」であった。生きる意味や生きる目的が分からないまま、どうやって生きれるのかと思った。これだけが苦しみであり、分からないことが苦痛でたまらなかった。したがって質問者と同じような疑問に生きてきた過去がある。やがて私は瞑想に導かれる。人々が瞑想という用語を当てているだけで、私はただ静かにしていただけだが、その静けさの中から知識を得ることができることを学んできた。それゆえ、瞑想を教えるのは瞑想であると長年言ってきたのである。瞑想法を知りたいなら瞑想することである。やがて、自我としての私がただ瞑想を邪魔しているだけであり、したがって決して私は瞑想できず、瞑想者ではないことを理解するだろう。このようにして偽物と本物の識別が開始されるだろう。だから「前進」するためには、「理論上だけでもわかりたい」という態度すら放棄しなければならない。その必要はないからである。本物に至れば、あるいは接近するならば、あらゆることが自然に理解できるようになる。人間という離れた位置や地位から理解しようとすることは、自我に屈することを意味する。知りたいという欲望から自由でなければ真に知ることはできないのである。このように、全放棄が瞑想の基本にして極意である。その放棄を可能にさせる力が必ず瞑想を続けていたら現れる。現れたら、その者だけにすべてを委ねるという簡単な、いわば怠惰な知恵――人間は何もせず、何もしないときにのみ、神の計画が正しく遂行されるという知恵に委ねることが、明け渡しであり解放である。
質問者と同じく私も抱いてきた疑問は、今や私には関係のないことである。つまり知りたくもない。なぜなら、知るということは、錯覚させられることと同じことだからである。知識は全て間違いであり、知らない状態における知だけが真の知性である。我々は考えるが、考えないことを習得したとき、つまりマインドをより高位のものに従属させるという術を習得したとき、神と真我が啓示されるだろう。したがって、コツは、いかなる自我の疑問とも関わらないことである。これは最初はできないだろう。まだ自身という器に神を引き入れていないため、神の力は存在していないも同然で、自由意志と呼ばれる自我の力しか分からないものである。よって、関わらないようにしようと自我が試みることしかできない。しかし、これは努力になり、自然の意志や力に反するもの、つまりこの世のあらゆる行為と同じくカルマの種をまくものでしかなく、解放とは逆の行いであり、「粗悪な材料」に条件づけられたままの状態である。だから、最初は、私(自我)には何もできないことを理解するためだけに、あらゆる努力が存在する。自我による努力を伴うどのような瞑想も、真の瞑想状態に逆行するものであり、ここで多くの人が道を誤り続けている。本物由来の力だけが行為者であることを理解するまでは、たくさんの瞑想における失敗があるだろう。そのすべての失敗が、自我の無力さ、自我という間違い、自我と関わる必要のなさを教えるだけである。より純粋になるにつれて、誰が自我と関わっているのかという、客観から主観に向かい出すようになり、最初から存在する主観にだけ意識が向くようになり、彼はほほえみをたたえながら、「私は在る。それで十分だ」と言うようになる。
私は何も考えない。このような文章を書いたり、物質界で特定の活動をするときだけ、マインドは使用される。このとき肉体などの諸体は、ただ神が描いたこの錯覚の世界で真に兄弟や姉妹である同胞たちを神の計画に一致させるためだけに使用される、一時的なこの世用の道具としかみなされなくなる。神は、すでに遍満しており、偏在しており、多神の中に存在する一神である。自我のいかなる疑問からも自由でなければならない。自我の知識は、神を分からなくさせるのである。理論的に知ることは、霊的な自殺のようなものである。知らないこと、保有しないこと、関わらないこと、これによって、知ることを欲望させる類いのエレメンタルは餓死し、自我意識を乗り越えることが可能になる。だから何も知らなくていいことを学ぶことが、「前進」である。知識は決して前進させない。これを真に理解するならば、静かになるだろう。そのとき、なにゆえにあなたが神でないはずがあるだろうか。理論は去り、目を遮るものはなくなり、本物だけが顕現せざるをえないだろう。惜しみなく神がその姿をあらわすだろう。そして我々は愛を知り、赦しを知り、あまりの素晴らしさに涙を流すだろう。このとき、肉体的に生きながらにして、地上は天国、すべては私、存在するのものすべてへの愛に満たされ、客観というすべての多神の中に一神を知り、私と神は同義語になる。