一つの意志があり、その顕現が現象面においては世界である。その部分である肉体人間は、分離した行為者ではない。行為は結果であり、一つの意志つまり一つのエネルギーが「すべての行為」の原因である。

エネルギーと、エネルギーが活性化するものを我々の具体マインドは分けて考察している。前者は命つまり霊であり、後者は物質つまり人間においては三重の諸体である。命が物質に拘束されるあいだ、そこに限定された意識が生まれる。すべての形態にはしたがって意識がある。我々が知っているのは人間の意識だが、拘束される形態によって意識には違いがある。しかし意識であることには違いはない。言い換えれば、我々は限定された魂だが、限定という錯覚が取り払われれば、すべてのものの魂と何ら分離していない。我々が知るのは、意識が一つであるということである。そして、意識は分離でも行為者でもない。意識は、エネルギーとエネルギーが活性化するものの中間に立つ視覚者であり、霊と物質の結合の結果である。エネルギーつまり霊が、物質を通した現象面の行為の源である。我々は源であり、真我であり、原因であり、どのような結果とも関係なく、またどのような物質に支配されるものでもない。主従が逆転した状態、それが人間という錯覚である。

一なる観点から、我々が想像する個人は存在していない。可能ならば、魂として個人という誤解を受け入れないでほしい。個人はマインドと想像の中にある。肉体や目に見える現象や五感を証拠に、行為する者がいるという想像があり、それを「マインドの子」である魂が採用し、この反射的な意味のない想念と同一化し、ナルシシズムに陥っている。全体の微小な部分が自身であるという、ひじょうに長い転生の周期を通して形成され強められた想念形態が、いまや彼自身である。そのため、魂は自分のことを人間だと思うことを、あえて続けている。これが何かしらおかしいと感じる古い魂たちが瞑想を始め、純粋魂の知覚と接触によって、その純粋な視力から、一切の自作自演に気づくのである。

魂は高位我だが、パーソナリティーという低位我と自己同一化している。低位我のさまざまな引力に屈することを、我々は欲望や執着と呼んでいる。パーソナリティーつまり個人と関係しなくなり、いかなる同一化もなくなるとき、我々は純粋に魂であり、それが限定された分離意識を一なる高みに引き上げる。それは人間の意識とは異なるものである。これを個人に教えるのが瞑想である。したがって、いかに瞑想が個人と無関係であるかが理解されるだろう。そのうえで、我々はいかなる個人の行為にも個人の努力にも個人の想像にも関与しないのである。理論的にではなく、そのように瞑想がさせるのである。この種の話は、自我には理論的なものであり、自我が霊的な何かを獲得するための野心や行為に利用することはできない。自我が、おのれである魂を知り、それによって徐々に客観面と自己同一化しなくなり、最終的に完全に物質から自由になる過程を、瞑想を通して、また日常に溶け込んだ瞑想生活を通して、純粋な意識が目撃するのである。

様々な質問、問い合わせ、お礼の文章を頂いているが、いずれも個人的に返信していない。記事で返信している。表面的な個人や現象ではなく、その背後の一者として我々は愛と喜びに満ち生きており、個人には個人という想念から自由になってもらいたい。質問は霊的な性質であってもその答えに満足したいのは個人である。それは個人の質問である。これを無視してもらいたい。自分の質問だという感覚に騙されないでほしい。マインドは、現象の中で、絶えず偽りの我のために疑問を持つが、どのような知りたい欲求も無視に値する。これによって低位我を構成するエレメンタルは活動をやめるのである。

しかし、無視は純粋な自己つまり魂と融合する意識の結果であり、純粋な自我を自分としている魂には、常識や、危険なことをしないための教えや、個人的な指針が強調されねばならないかもしれない。しかしながら、瞑想と諸体の浄化を通し、物質面への誤った傾倒の心配がほとんどなくなった魂には、もう何とも関わらなくていい権利が与えられるのである。ブラヴァツキーが言うように、行為しているのが魂(自分)でないと分かったならば、行為者の感覚は妨害にしかならない。それは大変な苦痛意識である。すべてと関係がなくなるとき、責任を負っていたすべてから自由になるのである。責任は錯覚だった。無意識に自分で自分をいじめる必要はもうないのである。比較や理想は去り、「でなければならない」はなくなる。よっていかなる苦悩も存在できない。自我は強迫観念に絶えずさらされ(騙され)ているが、これらは自分で作り上げたものである。真我とは関係がない。これらの事実が、自我の性質である逃避に利用されることなく、魂的な事実である場合、すべてからの自由と無関係性は必然的にして有用であり、失われることのない至福である。それを獲得しようとしたり、それに至ろうとしたり、欲求で解釈するのは自我でありマインドであるため、関わってはならない。この純粋魂の影響の結果が無執着とか無関心とか呼ばれるものであり、その個人的な努力とは何ら無関係な霊的斥力が、我々を普遍的な静けさへと、一つの意識、そして一つの命へと引き戻すのである。

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