元気だった者がいきなり体調不良に陥った。医者は適当に原因を推測して薬を出し様子を見ましょうと言うか、自身の知識では測れない場合は原因不明で片付ける。私なら一発で解決する方法を教えるだろう。もし真剣に聞こうという者がいるならば。たとえば私に、つまり肉体意識の私に体調不良が確認されたとする。キツいとか、だるいとか、苦しいとか。私はそれらが偽物であるという真相を知っている。したがって、完全に無関心である。肉体が病気だろうが元気だろうが私には関係がない。重要なテクニックを述べる。もし体調不良であれば、私は体調不良をまず認めない。生命自体が病気になるだろうか。神が体調不良を患うだろうか。本物に体調の良いときと悪いときという差異がありうるだろうか。というわけで、私ならば体調不良を、誤った焦点化がもたらす自作されたものの自身による維持と定義し、ただ視点を背後にずらすだろう。
肉体は病んで苦しいかもしれないが、無視して、普遍的な全我の意識に引き戻す。そこに病気があるだろうか。体調不良があるだろうか。あるいは、病んだ真我などあるだろうか。永遠性の領域に体調不良が忍び込みうるだろうか。全部錯覚だったのである。何を認め、何を認めず、どこを見て、どこを無視するかにかかっている。これは未来の治療技術の基本になるだろう。というのも、死や誕生を知らない純粋な霊エネルギーに生きる場合、病気という錯覚がその主張を続けることは不可能だからである。これを普通は治癒などと言うが、実際は、イリュージョンが追い散らされただけである。存在していないものが感覚などを利用して存在を主張していたが、本物の前では逃亡するより他になく、その者の意識内にて病気や体調不良といったものは治ったと解釈されるのである。だから、二度と錯覚が戻って来ないよう、個人意識への限定を許さず、可能なかぎり弟子は普遍意識に安らぎその喜びと美しさを味わい生きるべきである。
この話は瞑想にも当てはまる。たとえば、「自我である私」を認めた上で普通の人は瞑想せざるを得ない。私ならそのような偽の感覚は気にも留めず、個人として瞑想を始めるという最初から障害を作るやり方をせず、もし波動が落ちていたとしても、いきなり普遍性に意識のチャンネルを合わせ、即時に神を我として味わうであろう。ここで重要なのは、私が個人の感覚を無視している点である。これが途方もない肝であることを分かりさえすれば、本来は瞑想というものはないのである。言い換えると、瞑想している時と瞑想していない時という区別はないのである。自我と真我という話もないのである。無限や普遍という実在がなくなることはない。なくなるのは、我々の意識においてでしかない。そして我々の意識を決定するのは、何を本物と認め、何と自己同一化するかという、その一点である。
個人がうるさかろうと、その者を無視して、背後に退き下がるという慎ましさを習得すべきである。控えめであることはこの世ですらしばしば美徳とされている。能ある鷹は爪を隠すという諺すらある。自我はその逆だ。弱いから粋がる。無能だから有能になりたがる。雑魚だから認められたいと願う。美を知らぬゆえ肉体の美を追求しつつ老いる。真我を知らぬゆえに自我で真我を追求する。こういうことは全て精神の騒動でしかない。偽物の承認欲求でしかない。慎ましく控えめで美人な真我は、無知な者らの騒動や騒擾の中にあって、慎ましく控えめにおのれを消し去る。世にあって世のものにならぬ。そこにいるが、いないも同然になれる。気配的に死ねる。生きながら死ねる。これが生きながらの天国というテクニックである。
いま病気である者も、体調不良である者も、精神的に苦しい者も、それが本当にただの錯覚であったことを知ることができる。その第一歩は、「認めない」というものである。キツいならキツいと人は言うが、賢き者はそれを事実とはみなさない。ゆえに無関心である。偽物がいかに騒ごうが、本物はそれに一瞥もくれないだろう。弱者がいかに群れ騒ごうが、真の強者は加担することなく一人静かにしているだろう。強い者は、弱い者が群れても弱いことを知っており、それが強くないことを理解している。錯覚が見た目上もしくは感覚上で勢いを表そうとしてきても、偽が真に影響を与えることは不可能であることを本物は理解している。ゆえに、賢き魂は偽物に目もくれず、本物だけに我と我が身を委ね、無限の意識拡大に至福を知るだろう。これが目もくれぬ瞑想の真髄である。
病気の者は、最初に病気を認める。病気を確立した後に、確立したものを治療ないしは破壊しようとする。これだけで私は錯覚の本質を説明したと思う。自我と真我との関係も同じである。初心者は、最初に自我意識を本物と認める。その上で、本物と思っているものの破壊に取り組む。言いたいことが分かるであろう。ある程度の瞑想の進歩を得た者は、今わたしが述べた内容が事実かどうか、本気で確認してもらいたい。錯覚している者を初心者と呼ぶが、彼らは「私は自我です」と言う。それは、自我の感覚を認めたり、承諾したり、事実とみなしたり、本物だと決定したりしている無知がその背後にある。その感覚は実在ではない。病気の者ですら、その肉体から出れば、病気を感じることはできない。感覚と意識が、何と同一化するかで決定されるということは、「真なるものへの同一化」という教訓をこれから学ばねばならないということである。それまでは、個人的な感覚があたかも本物であるという錯覚が勝る。ラマナ・マハルシが言うように、「障害をつくり出すのは、『私が行為者だ』という感覚」であり、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、「不可思議の中の不可思議」と表現している。あるいは、マハルシが自身のガン治療つまり手術に際し、麻酔を使うことを拒んだ折り、その理由を「苦しんでいるのは『体』であり『私』ではない」と言ったのは、以上を読めばその意味は明らかであろう。障害の最初の原因は、自身で障害を作り出しそれを認めるという自我の性質によるものである。それは自我の経験欲のためである。これを私は自作自演と呼ぶ。
