乱れる前の気

「気が乱れている」と言う。ならば、「乱れる前の気」とはなんのことだろうか。

私はこれだけでほぼ全てを説明した。あらゆる問題が解決されるものを完璧に指し示した。それ以外に知る必要のないものに接近するための道を一発で切り拓いた。人間つまり個人的な意識を持つ者たちは、みな気が乱れている。多かれ少なかれ、気が狂っている。乱れる前の気、狂う前の気とはなんだろうか。これを考えるとき、普通の人は、乱れた後の気を使って考える。乱れた後の気でどうこうしようとすることが努力である。ゆえに、努力には苦痛が伴い、霊的な真理へは決して導かない。乱れる前の気とは何かと、乱れた後の気の意識が考える。しかし、真の「私」は決して一度も乱れたことのない気ではないのか。乱れた後の私が乱れる前の私を思うとき、最初から私は乱れていない気であり、調和という実在は即座に実現されるのではあるまいか。それは、どこに注目を向けたか、というそれだけの話ではないのか。私自体は、決して乱されえぬ気であり、乱された気の意識にある者ですら焦点を変えるだけで乱される前の気が自分であることを知りうるのではないのか。とするならば、気の乱れは思い込みであり、想念であり、ただマインドの後のものを実在と思い込んだという、イリュージョンに由来しているのではないのか。

気が乱れた意識を体験することはできる。我々の多くがその意識状態にある。しかし、それは思い込みであると私は言っている。それは事実ではない。自作したものに取り囲われ、それに影響を受けて、自演せざるを得ないだけの、無知に支配されたときだけ事実に思える意識世界である。乱れる前の気を我々は知ることができるであろうか。それは考えて知るものであろうか。それとも、いま、すでに私が「それ」なのではないだろうか。「接近」はたとえである。私がどうやって私に接近するのか。私は、どうやっても最初から存在している。すると、私は決して乱されない存在であるという事実に至る。私とは、乱されている方の私ではない。乱されざる私の方である。いまのところこの文章は無意味であろうか。

或る人が私に、「何と融合するのか」と言った。なるほどと私は思った。それは、融合の対象が意識内にまだなだれ込んでいないことを意味している。融合の対象とは何か。真に融合した者は、「融合」が錯覚だと理解している。なだれ込んできたものの方が私であることを理解しただけである。あるいは、「真我顕現」と人は言う。つまり、顕現していない意識が言う言葉である。真我が顕現したことを知るのはマインドである。マインドと同一化した意識である。この意識が、あるとき、真我と呼ばれる本物に気づき、本物のほうが自身を圧倒し始め、ついには錯覚が降参して、我すでに真我なりの境地を理解させるのである。このどこが悟りであろうか。マインドからすれば悟りかもしれないが、真我自体は最初から在ったに違いない。意識がマインドによって錯覚させられていたゆえ、それまで分からなかっただけのことである。ならば、いま分からないのはなぜなのか。分からないほどの気の乱れとは何のことなのか。「マインド後」のことである。

魂の階層から意識が降るとき、順次に三界の界層を通過する。我々にとって主に問題であるのは、低位メンタル体とアストラル体を通過した後の乱れである。それらに条件づけられ、条件づけられた後の意識を事実とみなす態度が問題である。これが「マインド後」の世界であり、それは気の乱れによって成り立っている。意識は、我々がいまそうであるように、外に向かっている状態である。ここで瞑想が登場する。目をつむるのである。最初は数分しか瞑想できないかもしれないが、意識がわずかながらも上昇したこと、より良い意識になったことを必ず感じるはずである。注意深く観察するならば。この観察を普通の人は努力によって行っている。ただ見ることがまだできないのである。それは、「私」を自我だと思っているからである。しかし実際は、目が存在するだけである。理解が、気づきが存在するだけである。それらは自我の私とは無関係に存在しているものである。徐々に分かるようになるだろう。瞑想でより高い意識に徐々に入れるようになることに気づくだろう。このようにして、目をつむることで、徐々に外のものと内のものを識別できるようになるだろう。外との同一化が気の乱れであり、内との同一化が気の乱れの前であることを理解するようになるだろう。気の乱れの前とは、ならば、それは私自身のことではないのか。

もしこれが分かるならば、あなた方は二度と苦しまないだろう。苦しまないでいいことを知るだろう。これは驚くべき事実である。最近の記事では、「責任」の観点から攻めた。以上を理解するとき、我々は何に対しても責任がないことに気づくだろう。マインド後の錯覚と同一化したときだけ苦痛。それは外である。しかし内を理解し、真の私をいまここに理解するならば、そのような錯覚の苦痛からは簡単に踵を返すことが可能になり、それが自作自演であることを理解し、無関係であることを理解し、経験する必要がないことを理解し、我すでに真我なりの境地がいつでも自在であることを理解するだろう。これは繰り返して言うが、驚くべき事実である。なぜか。簡単すぎることを言っているからである。これは頭では理解できない。なぜなら頭とはマインド後のことだから。ならば「マインド前」とは何か。これを知ることが瞑想ではないのか。これが分からない質問者に対してニサルガダッタ・マハラジは、「ならば反対方向と言えば分かるだろうか」と言った。おそらく分からないだろう。方向は、私には努力に見える。理解するために「反対方向」を考えることはいいが、本物は決して方向の先にはない。方向はまだマインド後の領域の苦痛に属している。

どれだけ自我意識が事実に思えようと、その背後に、いま、真我が在る。これを理解しようとするならば、気が乱れるだろう。私とは、理解されるものなのだろうか。もし理解されるものならば、それはマインド後である。私は理解されるものではない。すでに私とは私ではないのか。当たり前すぎてたぶん頭には分からないことである。頭が介入するとき、つまりマインドが介入するとき、「私」は、乱れた後の気のことを言っているのである。それは強烈に苦痛である。どうか分かろうとしないでもらいたい。私が言っているのは、私は分かるものではないということである。すでに私である。この事実は誰も変えられない。しかし、マインド後の領域だけと同一化している自我意識には、どうしても分からないため、瞑想するしかないという結論になる。最終的に理解することは簡単なことであるが、あまりに簡単なことを理解するまでに、この世では時間と経験が必要であると割り切って言わねばならない可能性がある。ジュワル・クールは割り切って教えた。事実ではないが、一時的な事実に即して教えた。ほとんどのそれ以下の段階の教師や聖者たちは、個人意識からその意識に入ったため、割り切ることがいかに害悪であるかを教えようとした。どちらの教えも事実だが、教え方は非常に難しい。苦しんでいる人のことを思うとき、一瞬で苦しみが終わる事実を教えたいのである。しかし、苦しみを通してしか理解できないこともある。くぐり抜けられねばならない苦しみがある。本当はないのだが、それは到達した後にだけおそらく言えることである。だからといって、事実を語らないこともまた嘘になる。

自我には希望や安心が必要である。疑心暗鬼はグラマーであり決して事実ではない。真に我々の前途は希望である。気が乱れているとき、人は絶望を感じる。しかし、我々は乱れる前の気である。これを生命と言う。我々は形態ではなく生命であり、これは普遍的であり偏在である。限定されたものではなく際限のないものである。つまり完全な自由であり解放である。しかしなんと言葉の虚しきことか。マインド後の言葉の意味なきことか。マインド前のことを説明するために、マインド後の道具を使うことのなんと浅ましきことか。これを思うとき、言葉を失わざるをえない。しかしながら、言葉を失うことは、ついに反対方向に我々が向かい始めるときであり、黙すること、真実のみを目すること、ただ在ること、ここに言葉はない。瞑想に想念はない。気の乱れはない。乱れた後のものと、乱れる前のものを調和させること、これが瞑想の為せる技である。我々は乱れる必要もなく、決して乱されることのないものである。どれだけこの言葉が陳腐であろうとも、この驚くべき事実をもって記事を締める。

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