1. 法則と調和している限り、世界や出来事から心理的な影響を受けることはないが、この守られた意識が平時に定着するまで、人は有害と無害という概念の中で生を余儀なくされる。その場合、霊的な成長という観点から、世の中は有害なもので溢れている。この害悪は意図的なものである。
  2. 特に物質界とアストラル界において、人類が霊的な上昇気流に乗ることを阻害しようとする力(もしくは勢力)が優勢である。イニシエートには、いわば上昇のイニシエートと下降のイニシエートが存在し、共に進歩しているが目的が真逆である。一方は善や法則を、一方は悪や破壊を体現している。調和に対して不調和が乱を起こしている。
  3. 霊的な進歩があり、物質的な進歩がある。これは観点である。霊性を進歩と見なす者がいるのと同じく、物質性を進歩と見なす者も存在している。人類は霊と進歩に関わっているが、物質への退化に向かう存在にとって、あらゆる霊的傾向は許しがたいことである。
  4. この物質性の兄弟方が体現する力を、さしあたり有害なフォースと呼ぶならば、この有害性から自身や兄弟姉妹を守ることは、守られた意識の外においては必要なことである。世界においては急務である。
  5. 攻撃されたらやり返すという、目には目をという方法を、上昇のイニシエートは拒否している。それは上昇していない意識が体現するものであり、攻撃に対する守護は、霊的には愛と呼ばれるフォースが機能している。裁いて裁かれるの繰り返し、攻撃して復讐されるの繰り返し、悪に悪で対抗するの繰り返し、この悪循環の無知を無効化させる善もしくは愛のフォースを、人類は体現できるよう模索している。
  6. しかし人類は影響力に無力な状態である。良い影響、悪い影響、共に無意識に受け入れ、受け入れた力に動かされている。防衛力を知らないのである。影響とは、文字通り影の響きであり、それは錯覚である。人類は、錯覚の影響下に隷従するのではなく、錯覚を無効化する力を備えている。フォースに対してはエネルギーを使用する能力が与えられている。これに気づき、気づくことで周囲に気づきが広がることは、法則の意志であり喜びである。

エレベーターに乗っていると、小二ほどの女の子が共に乗っており、楽しそうに妻と会話していた。妻が「学校は楽しい?」と無邪気に聞くと、いきなり表情は沈鬱になり、黙って首を横に振った。これに妻は驚き、小学生と同じような顔をしていた。

小二にもなると、自我は急拡大する。無邪気さは馬鹿にされ、もっと賢くなれよと言われる。生は喜びではなく苦痛であることに、特に日本の小学生たちは落胆している。生が喜びであるという風潮が欠落している。義務教育は、喜びが生の義務であることを教えられずにいる。その逆に、生は苦痛であり、将来の安楽を勝ち取るために今は苦痛を耐え忍び、分離して他人を蹴落とし、相対的な優秀さを競い合い、調和ではなく不調和のフォースに影響を受けるべきだと教えている。将来の教科書では、この時代を指して「不調和の乱」と呼び、生が喜びでない時代があったことに未来の小二たちが驚くだろう。調和という法則が分からくなり、調和を不調和が支配しようと試みている暗黒の時代である。

繰り返すと、影響、影の響き、これは錯覚である。フォースに対する視力を取り戻す必要がある。小学生から、我々は頭やマインドを鍛えさせられる。このせいで、見えるものも見えなくなる。よく、子供の時に見えていた不思議なもの、といった話があるが、大人もマインドの鎮静つまり瞑想を通してふたたび真の子供意識に戻らねばならない。子供ですら、もう子供意識は忘れている時代に、あえて我々は子供にならねばならない。不調和に生きること、悪の傾向を持つことは、決して嬉しくない。人類全体が、目に映る有害なものから、目を瞑らねばならない。純白な喜び意識に守られた者を、誰が攻撃しうるだろうか。攻撃する者は愛に飲まれ、悪に動かされていた錯覚から目を覚まし、生を喜んでいいことに驚くだろう。

例えば、元KGBのYuri Bezmenovのインタビュー動画では、敵国を転覆させるために行う工作の内容が語られている。

STEP
モラルの破壊

一つの時代の若者を洗脳もしくは教育するのに要する期間として15~20年。

STEP
不安定化

経済・外交・防衛という国の根幹をなす重要エリアに対する工作として2~5年。

STEP
危機つまり乱

敵国を最終的な危機に陥れるのに最大で6週間。

STEP
正常化

つまり転覆させた側のイデオロギーに正常化させること、いわば統治であり期間はない。

彼らは1の段階を重要視し、この心理戦、積極活動に最も時間や資金や労力を費やす(活動の85%)と強調する。というのも、洗脳した子供が大人になっても操作することは赤子の手をひねるぐらい容易だからである。すでに転覆が完了している日本を見てほしい。かつての日本人のモラルを喪失させたもので世の中は氾濫しており、これら反乱の背景には有害性のフォースが働いている。これは意図的であり、この意図に反応する似たような波長を生きているいわゆる悪の傾向を持つ者たちを通して物質界では表現され出来事や事物として結実していく。

モラルの破壊とは何なのか。霊的ではなく物質的な傾向を持たせることが人類における「モラル」の破綻である。調和ではなく不調和を教育すること、生命の一体性ではなく分離と個を強調することである。夢や自由意志といった聞こえの良い言葉で盲目にし、個人と個人を争わせる。調和を乱すためには必要だが一般には受け入れられていない不都合なものには「愛」という語をあてがう。愛国心で若者は戦争すると言う。ただの性的倒錯を同性愛として守ろうとする。愛という言葉がくっつけられている単語のどこにも真の愛がないのは、利用されているからである。

生の喜びより、性の悦びがはびこるなら、モラルつまり生命という真の一体性が失われている。小学生から生は苦痛、しかし性は喜びだと見なされ、恋愛という錯覚で愛を蝕むようになる。今のところ愛は、性欲であるか、あるいは寂しさや、無いものや失われた何かを埋めてくれそうな相手に対する執着であり、アストラル的な錯覚つまりグラマーである。胸の大きな女性を見てグラマーだと表現する男のように、錯覚である。こういう低位の合一への欲望にはやがて嫌気がさすだろう。そして高位の合一に目を向け、物質ではなく霊、肉体ではなく生命、人生ではなく生自体に目をみはるようになるだろう。

しかし、霊的な道という話もまた、グラマーなのである。

そしておまえはひとりきりになりながらもおのれを見失うことなく、偉大になり、感覚のすべてにおいて解き放たれたごとく、名もなく、しかも、ほほえみをうかべて幸福ではなかったのか。物言わず愛を求める自然、すでに生きられた生にほかならぬ自然、いまいちど生きられたいと望んでいる自然が、おまえのそそぐひややかな視線にいらだって、あのふしぎな時間にいたるとき、おまえをわれとわがうちに引き入れて、おのが奥深くにも神聖な洞窟があり、外にあってはみずからと切り離されているおまえがそのなかでおまえじしんと一体になりうるのだ、とおまえに教えることが、なにゆえにないと言えようか。

Hugo von Hofmannsthal
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