「神は愛である」から「神は意志と力である」という最後の教えへの変遷について。これがなぜ重要であるかというと、我々の内部でもこれは起こるからである。フォース(force)は文字通り力だ。対してエネルギー(energy)と言うとき、実際に我々が指しているのはフォースであり、純粋なエネルギーではない。たとえば、魂のエネルギーと言うが、それは実際は魂のフォースである。
エネルギーとフォースは神とその創造物のようなものである。被造物は神によって成り立ち、すべての被造物のあらゆる局面に神は浸透しているが、被造物の表現つまり特質や性質は、被造物が何であるかに依存する。霊(energy)と物質(複数形であるforces)の結合により魂(特質)が生まれる。この特質は霊が結びついた形態の質料とフォースに条件づけられ、人間ならばその人をその人であるものにさせる。
「神は愛である」は、人間が自己を純粋な魂(第二様相)であると認識したときの啓示体験と関係する。一方、「神は意志と力である」は、人間が自己を霊(エネルギー)であると認識したときの啓示体験と関係する。実際にはそれは、神のパーソナリティー様相であるアートマ・ブッディ・マナスにおけるアートマのエネルギーであり、したがってこれもまたアートマのフォースである。それは神に条件づけられた力であり意志である。
純粋な霊であるエネルギーは、すべての顕現であり、且つ、特質を持つ顕現を動かすフォースに内在する非特質的で非関係性的な至高の原因である。真の意味でエネルギーは実在だが、フォースはその影である。エネルギーはただ「在る」が、フォースは常に何かを「する」。もしくは通る形態に「する」よう力で条件づける。
我々の「行為者感覚」や「自由意志」や「分離した個我意識」は、三界において、この特定の「する」を強いる力と同一化したときのものである。三界を超えた魂のフォースにそれらが従うようになるとき、「する主体」は消失する。自由意志は、魂の意志に置き換えられるようになる。その後、彼や彼女といった形態面を動かし支配するのは、魂のフォースである。言い換えると、魂を経由したモナドのフォースである。モナドは、アートマ・ブッディ・マナスのトライアドを通して自らを顕現において表現する。したがって魂の意志は、そのようにステップダウンされる以前は、アートマの意志であり、それは神の意志である。
我々が最も簡単に接触できるフォースの一つに、感情や情緒がある。いわゆるアストラル・フォースである。怒りや悲しみ、上機嫌や幸福感といった無数の情緒感覚と我々は常に接触している。このとき、感覚は特定の表現や状態を強いる力であり影響力である。我々は完全に無意識にこの種のフォースに条件づけられている。このような条件づけから自由であるのは、第二段階以上のイニシエートだけである。神がアストラル的ではないように、彼らにおいてもアストラル性質というものは存在していないも同然の状態であるが、人間の世界で人間と接するときにはいくらか使用される類いのフォースでしかない。このようなアストラル体はしばしば澄んだ波立たない湖面に喩えられる。感情や情緒は去ったのである。それはきれいに太陽を映し出しており、つまり純粋に魂を映し出す道具となり、愛と喜びと平和がその者に顕現するようになる。魂を介して、神の意志が人間の意志を支配している調和状態である。これには、得も言われぬ至福が伴い、完全にそれまでの「その人」をかき消してしまうだろう。そのとき神性の霊的五感が捉えるのは唯一なる神つまり全我の途方もない美しさである。
女や男が自身の容姿の美しさを追求する背景には、失われた真我の美を求める衝動が秘められている。化粧やダイエットやエクササイズや整形手術を通した流行の顔面への変容の探求。この執着に終わりはなく、より醜くなるばかりであることを年齢を重ねるうちに悟る。化け物のような顔と言われるようになる。間違った美を追求する者たちが、しばしば性的という語が示すあらゆる意味合いで倒錯しがちなのは、偽の自己と真の自己をはき違えた結果、「気」が狂ったままの生き方に条件づけられたからである。まだ人類は、容姿の美しさを求める傾向にある。内面は邪悪でも、容姿さえ美しければ満たされると考えている。濁った心がどうして美しき顔になれるであろうか。真に美しい顔とは、美しい心の反映でしかなく、美しい心とは、偽の自己と真の自己を識別し、真我を見出し、すべての背後に実在する唯一なる純粋エネルギー・純粋霊・純粋生命を我として自覚している賢き心、愛溢れる心のことである。これが真の美人である。男でもこの境地にある者は美人である。美しい人である。そして美しい人とは、神である。
低位のフォースと高位のフォースの識別のことを、現状ではフォースとエネルギーの識別と暫定的に言う時があるが、真の意味では、神と無数の被造物があるように、実在であるエネルギーが無数の特質を持つフォースに分化しているだけであり、悪と呼ばれるフォースですらエネルギーである。言い換えると悪ですら神である。善ですら神である。表現に惑わされず、すべての顕現の背後に神を見れる我々でなければならない。形態や表現で善や悪、美しさや醜さを測定するならば、我々は永遠に二元の迷いから抜け出すことはならず、善悪の意味をはき違えるであろう。つまり永遠に形態と表現という顕現の側面だけしか見えないだろう。それが何であれ、すべての背後の実在と我々は、「同一のもの」である。私である。
形態さえ無視できれば実在が見える。実在が分かる。だから死にゆくもの、変化しゆくもの、儚きもの、無常なるものに生きるなかれ。永遠なるもの、真の自己であるもの、それはただ私であるが、それを覆い隠しているものから自由になるため、学び、瞑想し、魂として奉仕し、本物への理解を深めゆかねばならない。仮相や仮象で構成されているこの虚構の世界にあって、簡単に騙される我々であってはならない。見失ってはならない。私はいま、ここに存在している。
全顕現は幻想であり、その本質は無常なのだ。……顕現の背後に行って、顕現と非顕現は二つではなく、一つであることを誰が見るであろうか。
ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」p.250
