- 五秒瞑想は、思考のない意識そのものに留まり、その際に眉間で5秒数えるとのことですが、これは数え始めた時点で、積極的に自ら思考したことにはならないのでしょうか? 私は試してみたところ、数え始めた時点で、1秒、2秒という思考が生じました。私は記事の内容を読み違えているのでしょうか?
最初に統御されていないマインドがある。それに気づくため、数をかぞえ始める。数えること自体はマインドの変異である。それ以外に変異がないなら、数はかぞえられていく。つまりマインドが魂に統御されているならば、数えるという変異のみは許容される。そのうち、数えるという変異も不可能になり、”それそのもの”への没頭が自然になる。このとき変異は全くない。
この努力なき集中状態へ導くため、数多の方法が考案されてきた。思考が起きるたびに「私は誰か」と問うことで思考はなくなるとラマナ・マハルシは教えたが、自我は「私は誰か」も思考ではないかと議論をはじめるだろう。ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」という感覚に留まるよう教えたが、留まろうとする思考があると自我は思考するだろう。このように、純粋な自我にはマインドの統御は理解をこえた話であり、したがって一秒も瞑想はできない。その場合は一秒瞑想をすると良い。何が瞑想で何が瞑想でないかを教えてくれるだろう。私には瞑想はできないと理解するだろう。つまり、瞑想するのは自我ではなく魂なのである。
このような疑念や思考が生じても、それと戯れ続けることを選択しないことをおすすめする。無視して終わりである。気づいて終わりである。続かない。自我は議論でおのれを養う。魂との融合がないか微弱な場合、自我にとって議論や思考の苦痛性とは無縁である。哲学者などはそういう人たちである。マインドが統御された状態を知らないゆえ、永遠に議論を楽しんでいる。これは、無知そのものの苦悩のもがきである。
この種の質問は多い。文章や言語で霊的なものを描写しようとするとき、我々には多くの妥協が必要になる。そこを汲み取ることが自我にはしばしばできない。悪気のない揚げ足取り、矛盾の確信、自信に満ちた質問が永遠に続く。「しかし」と彼らは言う。何か答えると、だいたい「しかし」と言われる。第三光線や第五光線タイプの人にはこの種の傾向がよく見られる。いわば、ア・プリオリなものをア・ポステリオリなもので納得しようと固執するのである。必要なのは、魂との接触の強化である。外側の人間や頭で何を考えても無駄だと教えるのは彼である。それは人間の騒音の背後で今もそこで見ておられる。
自我は苦しんでいる。おのれの思考に。しかし苦しみを知覚できない場合、議論に参加し続けるだろう。答えなき質問に挑み続けるだろう。正しい態度は、無視である。五秒瞑想は、長時間瞑想で空想を続けるくらいなら、基本に戻るべきだという趣旨である。空想は瞑想ではない。五秒が理解できないなら、一秒の瞑想を知るべきである。おそらく無理だろう。一秒と言った直後に思考に巻き込まれるだろう。すると、このような質問が生まれる。それ自体は自我の「仕様上」、仕方ない。質問者は思考とご自身を同一化しており、関係のないものと関係をもつことで「ご自身」を維持しておられる。だから彼には、答えないという選択肢も時には重要になる。彼のマインドは、質問と答えで絶えず構成されなければならない。質問が生じた瞬間にそれを断ち切るのではなく、質問を続けることでメンタル体とアストラル体の養分を欲しがっているというのが彼の実情つまり仕様である。
素直さのなかで、あるとき魂が訪れ、彼の偉大さが、この無意味さを自我に教えますように。やがて静けさを知るだろう。これまで難しいことをわざわざしていたことを平和のなかで知るだろう。何もしなくてよかったのである。そう、魂が言わせるだろう。必ずこのときが来ることを知って、おのれの騒音と友誼を断ち、おのれという詐欺師に騙される弱さを拒否し、そうすることで偽我を乗り越えゆく偉大な力を我が内に見るだろう。彼が真我である。自我は、これを読んだ直後に、また自我に戻るだろう。この古い波動の習慣に新しい高位のリズムを課すのが瞑想である。議論より瞑想、思考より無視。我々は思考でも思考者でもないことを信じなければならない。