五秒瞑想

ある人が、瞑想できないと言った。私なら、それを言っている人が自分だと感じないため、周期の法則上、波動が落ち、思うような瞑想ができないとしても、瞑想の良し悪しをそもそも求めていないため、いつも通り、ただ魂として在るだろう。瞑想できなくていいのである。瞑想できないことに良し悪しを言う人が問題なだけである。個人は不平不満を言うことで次の物語を作り出す。つまり問題を糧にして自我として生きる力を得る。私は個人でも出来事への反応でもない。瞑想できないと言っている人と同一化しない。だから個人は養分不足で魂に斃れたのである。

五秒瞑想。瞑想をはじめて間もない頃、一日に五時間の瞑想を日課としていた。長くやればいいと思っていたのである。内なる存在から、何をしているのかと言われたものである。代わりに基本を教わった。五秒。

五秒間、思考のない意識そのものに留まる。あるいは内的な存在性でもいい。前者は眉間、後者はハートである。私はヘッドの道を辿ったため、眉間で五秒数えた。思考が少しでも生じたら、一から数え直した。五秒できるようになったら、六秒、七秒と数えていく。次第に、数える速度がゆっくりなるだろう。それでも思考が生じたら、ただまた一から数え始める。やがて数えることができなくなるだろう。魂が個人を掴むのである。その後は、彼に没入し続けるだけである。それでも思考はやがて生じるだろう。また数え始める。すると二秒ですぐ魂に没入するかもしれない。このようにして、瞑想が上達するのである。

コツは、一秒でいいから、思考も情緒性質もない、諸体の静まった状態の素晴らしさを知覚できるようになることである。最初から三十分とか一時間とか瞑想しようとするから、空想ばかりしているのである。それは瞑想と呼ぶには甘すぎる。しかし瞑想は努力ではない。個人が執着で秒を数えるのではない。ただ、想念のない状態が心地よいため、甘やかされたメンタル体を鍛え、留まっていられる習慣を養うのである。これを集中力と呼ぶ人もいるだろう。しかし主体が魂であることを忘れないように。集中するのも瞑想するのも魂である。やがて意味が分かるだろう。われわれは精神でも肉体脳でもない。

だから、瞑想はできなくていい。五秒やれば十分である。そして、また五秒したいと思い、実際に五秒やるならそれでいい。この積み重ね、五秒でも低位の波動に高位の波動を賦課するという習慣がわれわれを引き上げるのである。だから長く瞑想しようとか自我のチャレンジ精神を無視して、五秒を基本と知ること。一時間やっても空想ばかりなら、五秒の基本を思い出すこと。この基本を学ぶなら、真の瞑想つまり真の集中には多くのエネルギーが必要だと知るだろう。だから、日頃から肉体的、感情的、メンタル的な個人的なことにエネルギーはなるだけ使わないように心がけるようになるだろう。それよりも即座に五秒瞑想をしたほうがいい。疲れたらやりたくなるまでなるだけ瞑想的な休み方で愛の日常を過ごし、自分が本当は誰であるのかを常に覚えているように。こうしてエネルギーが充填され、また五秒やりたくなったらやればいい。やがて、明らかに瞑想が上達したことを知るだろう。

最後に。結果を求めるのは個人である。瞑想の成果を急ぐのは自我である。彼と関わらないように。ただ偽物を偽物と知り、何の執着もなく、ただそれが好きだから、正しい波動、普段より少しでも高い意識状態、想念から自由な五秒が好きだから、という理由でやるならいいだろう。一秒できなくてもいい。いつか二秒できるようになるだろう。これは、二時間瞑想をするより良いことである。量より質。これを知るならば、瞑想する時間がないとは言わなくなるだろう。五秒は誰にでもある。

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