何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在についての内的な認識に基づく至福である。
アリス・ベイリー「イニシエーション 」p.113
人は眠りに落ちる前、ある種の心地よさを感じる。それは、睡魔が人間をつかみ、活動が受動に移り替わり、人間が魂意識の兆候をほんの束の間、知覚するからである。まだ感覚の要素が強く、本質的に至福である静寂、落ち着き、平和の澄み切った広がりに意識的に没入しているわけではないが、人間の自我意識のすぐそばに、それがあることの証拠をわれわれに提示するものである。
引用の境地はクライマックスではない。難易度の高い境地ですらない。無知に迷う自我意識が、しだいにこの静かな意識に取って代わられて、普通の状態になるのである。あまり遠くない未来、多くの人の日常意識がこのようなものになり、一般的にも科学的にも魂が認められるだろう。これを科学的に教えることが教育になるだろう。人は何かになろうとは思わなくなり、静けさに自身を求めるようになるだろう。有名な人ではなく、無名の静かな人になりたがるだろう。
この意識からは、魂以外のすべてが苦痛となる。何も知らなかった頃にこの引用を読んだならば、それは一部の進化した人間に関する話であって、自分には何の関係もないと思って読み飛ばしたに違いない。この種の、境地に関する雲の上の話ではなく、目の前の苦痛だけが問題だったからである。しかし、苦痛という切迫した環境が、継続的な、並々ならぬ苦闘へ導いたのであり、さほど苦痛もなく生きられるなら、瞑想のような陰気な世界(昔はそう思っていた)に寄り付くことはなかっただろう。結果として、ながく無知に苦しんだだろう。
だが、静寂の至福はいまや当たり前の状態になった。日々の瞑想が徐々に知恵や視力を回復させ、苦痛を調和へ導き、このような意識を普通にすることを知った。私にもこの境地は可能ですかと問われれば、神の名において可能だと答える。だからこのような記事を書き、ひたすらに全体の自由を願っている。この道においては岐路らしい岐路の記憶はない。それなりに、霊的な跳躍や世俗的な堕落を幾度となく経験したのだろうが、そのような記憶や現象と関係する必要がないのがこの意識状態である。あえて思い出そうという力がないため、覚えておらず、記憶つまりマインドの変異ではなく真我に集中していられる。余計なものを求めないなら、この状態は万人のものである。
とはいえ、万人の求めるものではない。いわゆる瞑想的な人たちを観察してみると、残念ながら瞑想的ではない。肉体や精神を自分と見なしており、その儚く短い個人の幸福の手段として欲望瞑想をし、体験を欲している。否定しているわけではない。矛盾に気づくことが必要だと思うのである。右手のすることを左手は知らない。口で言う理想と日常の自分が違う。しかし、魂の永遠の眼で見るならば、それすらも完璧の部分でしかなく、そのような瞑想の名のもとの品性下劣が失敗を教え、苦悩を与え、結局は真の自己へと導くのである。神の描く完全な図はつねに遂行される。これが自明であるため、われわれ全体のもがき、われわれ全体の苦しみに対しても、無執着のまま、こういった願いを込めた文章を書くことができる。無執着のまま、日々に兄弟姉妹を愛することができる。このブログの文章は分かりにくいと言われるが、多くを望んではいない。いつか一人のためになり、彼や彼女が平和に導かれ、その旅路の完成におけるひとつの部分であればそれだけで満足である。