仮想現実

われわれは、私という感覚を持ちながら自我の破壊を望むが、その方法には熱心であっても、私自体には無関心である。なぜなら、本当に私が見られたら彼の世界つまり信じたいものは終わってしまうから。日頃より、筆者がものごとを自作自演と呼ぶのは、自我の根底に、その自作自演を知る者がいるからである。それもまた私なのである。

悲しんでいる人がいる。肉体の現象で彼は泣いており、彼は嘆きに苦しんでいる。と同時に、彼はその現象を離れて内から見ており、なぜこれが起きているかを知っている。彼は自ら想念を作り上げ、それを自我にとって悲しむべきことだと判断し、悲しむという表現を選択し、その表現を演じることを欲望しているさまを、ただ眺め、知っている。この全工程と真の自己は無関係である。何に無関係であるかと言うと、真実が不真実に無関係であるという意味である。言い換えれば、われわれは自我と無関係である。

家に犬が四匹いる。かつて溺愛に近い感覚を抱いた年長の犬が、現象の面では死を迎えんと準備している。われわれは、愛する家族が死ぬと悲しむ。その工程、流れ、運命と人々が呼ぶ現象面での出来事は、ただのよく出来た映像である。この映像の中にわれわれは没入し、体験する人として参加している。そして参加しつつ、本当の自分は映像と離れていることも知っている。われわれが自我と呼ぶ感覚は、いわば体験のための装置である。実際は体験というものはない。突き詰めれば見てさえもいない。しかし自我という装置を通せば、それぞれが独立した体を持つ存在として、出来事を通して体験するという錯覚が可能になる。本人は現実だと主張するが、その背後の私は現実ではないことを知っている。だから自作自演と呼んでいる。

673夜でこのことを書いた。私は絶望した。そのとき、絶望している私を見た。体験する側から、突然、それをただ見ている側に回った。すると、見ている者は絶望していなかった。この見ている者が私だった。見られているものは私ではなかった。体験しているふりをしている者も私ではなかった。体験者とは、ただの想像だった。

出来事は起きる。結果というものは意識の中の世界には起こる。しかし、結果を体験する必要は必ずしもないのである。この映像と感覚の世界から自由になるにつれ、われわれは、体験者にはなれなくなる。そういうものがないことを知っている方の私、つまり魂として存在しているからである。呼び名は何でもいい。自我の背後で現象や感覚からは孤立した本当の私のことである。この私は、自我と真我を結びつける者である。それをただの意識と呼んでもいい。肉体と生命の中間に立つ橋渡しの役割と呼んでもいい。このブログでは魂と呼んでいるが、それは人間魂であり、世界魂つまりオーバーソウルではない。パーソナリティーから人間の魂が自由になると、内的な運動とメカニズムが働いて、普遍的な様相つまりすべてのものの魂との融合と接触を妨げるものがなくなるのである。これを世の中では悟りと呼んでいる。それは高尚なことではない。夢の最中に夢を見ていることが分かるようになり、夢であるかぎりは夢の体験者になることもできず、ただ起こるがままに夢の映像を無関心に見ていると、夢の維持ができないため破壊され、目が覚めるというだけの話である。これが覚醒である。

それは人々が求めるようなものではない。人々は体験を求めている。それは体験とは何ら関係がない。体験の背後には欲求へ向かわせる力がある。その力は、自我という装置を通してのみ働きうる。さまざまな体験が終わると、その力は体験へと向かわなくなる。外から内に力が向きはじめる。真我へ向けて自我が溶解しはじめる。その象徴として、肉体人間が見た目上の世界で瞑想をはじめる。意識が変化するにつれ、人間は瞑想が上達したと思い込む。実際は、引き起こしている力があるだけである。それが一切の原因である。われわれが見ているのはすべて一者である力の結果である。これらを俯瞰すると、行為者というものは想像上にしかないことが理解されるだろう。そして人は、その力を真の我と感じるようになり、その力つまりエネルギーに抵抗しなくなる。これが、諸体のフォースが魂のエネルギーに従っている状態であり、瞑想の目標である。したがって瞑想は行為や努力とは無関係なのである。三界の何ものとも関係がないと感じさせる魂と一体化させるのが瞑想の目標である。唯一なる意志や力のみが存在し、その意志と力が(自我や魂を通して顕現する)真我である。個別の自我や自由意志というものは想像もしくは解釈でしかない。この事実を見ることで、自我や世界からは自由になる。

三つ組人間光線対応する特質感覚状態
第一様相第一光線意志と力至福存在
第二様相第二光線愛と知恵愛と喜び意識
第三様相物質第三光線マインド体験に依存自我
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