この世の一時の強さ、権勢、財力、上昇気流を見誤り、個人的な私が強い、偉いと驕り高ぶるとき、人は善を見失い悪に接近する。そのあり余る力を個人のために使おうとする。為政者や法を司る者など、力に関わる者にはよくあることだが、力を個人の目的に仕えさせようと骨を折るようになり、害悪を撒き散らし、将来の禍々しい悲劇を自ら作り上げる。打ちのめしてきた者は打ちのめされる。懲らしめてきた者は懲らしめられる。害人は常に外人である。害は外の人に由来している。しかし内人は無い人である。持たぬ者、おのれすら所有せぬ純白なる者は、害を生業とする外人の体験から学んできたゆえ、たとえ強くとも、その研ぎ澄まされた爪を隠している。彼の爪は鋭いが、その鋭さはもはや個人のものではなく、鋭さの源へと向けられており、偉大であるべき力を知り、すでに存在するその強大な流れと善の目的に平伏すことを全身全霊で学んでいる。外で力を誇る者は哀れである。若すぎる。自分の力、自分の強さ、みなぎりほとばしるパワーという感覚……そんなものはありもしない。瞑想者は力に触れる。我を壊すほどの力と酌み交わす。私の力は、唯一なる力に置き換えられる。力は意志であり、意志は目的を包含している。それらが仕える源が神である。
神の目的に生きる者、すなわち、力自体と融合する意義を知る者は、法学つまり方角を知る者である。個人は、自分の目的に向かって生きている。これが原因と結果の法則を通し、不幸や惨事をこしらえ、人に学びの機会を与えている。それは学びにしてはあまりに辛いものに思われる容赦のないものである。そのため、怒れる神や天罰の概念が人々の中に登場した。神よどうかお許しください。かつて強かった者は泣きながら乞うことになる。善悪や道徳の価値観の中で、人は神において何が正しく何が間違いであるのか、法則を学ぶことを強要されるが、これが教養である。この教養におのれを捧げた者こそが法人である。法の修養者とは、悪と善を和解させ、物質と霊を和解させ、法の下にひとつにした者である。彼は法則と神が同義語であることを学び終え、個人の目的ではなく、神の法律の中で働いている善と意志と目的に協力することを選択したイニシエートである。
神聖なる瞑想にあって、個人の目的に生きる者のなんと多いことか。サマーディーなどの至高体験や、霊的進化、果ては超人的な力を求めるという愚を知らぬ初心者は、誰の目的に生きているのか知らねばならない。そういう目的のための瞑想ではない。誰の悟り、誰の至高意識、誰の進歩なのか。これらがすべて想念であることに気づき、想念が神性に鎮め浄められたとき、神の意志がやってくるだろう。神の力が押し寄せくるだろう。これが聖なるエネルギーであり、一方で我々に流れ、我々が扱い、我々が行使している今の力はフォースつまり条件づけられた原理に背く力でしかない。フォースをエネルギーに変性するとは、個人の力を神の力に明け渡すことにほかならない。明け渡しは、人間の最終学歴がもたらす結論である。私は存在していない。実在しているのは唯一なる命である。この命に生きてこそ生命である。人間の魂は、物質と霊を和解させる調停者であり、三位を一体化する者である。このような学びだけが活きた学問ではないのか。つまり実学ではないのか。何に生きるための命そして生涯なのかを知らねば、しばしば生きれないし、自殺した方が賢明であると錯覚しかねない。教師、先生、学校とは、おのれじしんである。弟子の師はおのれである。瞑想する者に教えるのはおのれである。わたしじしんである。それはすでにいま在る。
我々は仕事のために生きているのではない。一日の大半が仕事つまり肉体を養うために必要な金を稼ぐ労働であるために生まれてきたのではない。仕事とは、神の仕事である。ならば、何が神であり、何が神の仕事であるかを知らねば、生き方が分からない。だから迷って過ちを犯す。幸運なことに、生きるのは個人ではない。生の責任は我々にはない。あらゆる悩みも不安も重荷も、個人が抱えるものではなく、存在していない錯覚だった。だからこそ、個人がいかなる不幸の只中にあっても、真我を知る者は至福なのである。どういう仕事をするべきかと人は悩む。どうしても肉体を養う上でお金が絡んでくる。私は、それを無視してきた者である。瞑想で、神の仕事を学び、神の意志と目的におのれを沿わせてきた実験者である。すると、神は私を養われた。私を肉体や個人だと思っている人はみな不思議がる。なぜ若くして働いてないのかと。生涯で労働したのはおそらく三年ばかりだろう。それは親の借金を返済するための仕事だった。おのれのために働くことは決して正当な仕え方ではないと感じていた。おのれとは何なのか。私とは誰なのか。個我を真我に溶け込ませ、そこで学んだことを三界で活かすことがこの世の仕事ではあるまいか。仕事とはすでに存在する力、その流れ、意志つまり神聖エネルギーである。自由意志はフォースに関係している。自由意志はその主が存在せぬため錯覚である。私の力ではなく、本来の力に、その流れに戻すべく、天と地は和解しなければならないのである。人間が関わっているのはこのような仕事であり、個人が真我に、物質が霊へと生命と力を移行させたとき、彼が三界で学ぶことはなくなり、法に生きることでカルマを始動させることはなくなり、転生周期を解脱し、より大いなる職務が解放される。仕事とは喜びである。仕事とは奉仕である。仕事の動機は愛である。