- 誰かを批判したくなるとき、そういう自分に対してどうにかしようとすること自体が逃避である、という趣旨の記述について疑問に思ったので質問します。自己修正が正しい修行ではないのでしょうか。なぜそれが逃避になるのか理解できないのです。
まず、すべての人に対し、自己修正の無意味さを述べたわけではない。そのような時期はある。それは低位我の意識しか知らない時期に行われることである。瞑想は、意識を低位から高位へ引き上げるものであり、いったん自身が低位我と関係ないことが理解できたならば、批判などの個人的な表現は根本的な問題ではなくなり、魂である自己が低位我と同一化していることが最初の誤解であることが分かるだろう。このとき、注目の対象を個人の表現ではなく、また表現させる諸体のフォースでもなく、われわれ自身である真我に引き戻すということだけが非逃避になる。それはまったく何もする必要のない真の意味での自然の状態である。
- ですから、私は低位我の意識なのです。このような場合は、邪悪な性質をより良いものへと変性させようと努力することが正しい修行と信じますが、ここには同意いただけるのでしょうか。
誰が変性するのだろうか。
- だから低位我である私です。自我意識です。
自我とは想念であり、何かしら存在しているものではない。想念が、肉体や感覚や目に見えるものを論拠に「私」という想像をしているだけである。想念が、想念を生み出す者がいるに違いないと想念しているだけである。このような想念を含めた空想の集合体が自我であり、自我は本質的に想像力の産物でしかない。そのような泡が、いったいどうして変性する力を持ちうるだろうか。自我によるすべての霊的努力が本質的ではない理由がここにある。あなたは想念や情緒の世界に住んでいる。まずアストラル体(情緒体)が静かになるまで何年か瞑想するといい。そう簡単な話ではないが、あなたは成功し、魂や高位我を認識するようになるだろう。あとは、それまであなたを動かしていたフォースに関与したり注目を向けたりするのではなく、正しい高次のエネルギーにおのが全体を委ねることが喜びであり至福になる。逆に、低位我で反抗したときだけ、苦痛を感じるのである。
- 自我である私に力はなく、自己修正の努力は何の効力もなく失敗に終わるだけと言いたいのですか。
フォースでフォースを扱ってもフォースである。葛藤し、もがき、努力することは、あなたという精神の領域内での格闘である。このような衝突と摩擦は、まさに苦痛しか生み出さない。この誤解に気づいてほしい。この領域に関わらないでほしい。魂は観照している。あなたが悪人であれ善人であれ、そのような解釈の世界には何の関心も持っていない。また何の意見も持っていない。だから意識を低位の表現に向け、それをしている自分という分離した想念で自己憐憫に陥るのはやめて、そのような動きをただ瞑想で相殺してほしい。あるいは、瞑想でそれらをただ見てほしい。けっしてどうにかしようとしてはならない。何の意見も態度も執着もない目だけが、あなたのありもしない問題を貫通し、喜びへと至らせるのである。それは魂の目である。
- 私は自我意識ですので、そのような態度で瞑想できません。許せない人物への怒りが瞑想中にわき出てきます。その人の顔が浮かび、その人がしたことが浮かび、怒りや腹立たしさで瞑想になりません。どうすればいいのか迷っています。この存在に私は毎日職場で会うことが苦痛です。そういう自分に嫌悪感を抱きます。しかし、どうしようもないのです。だからといって、どうする必要もないと言わないでください。あなたがそう言うならば、私には「地獄へ留まれ」と言うのと同じになりますから。
例えば、私があなたのような状態を体験したことがないと思うだろうか。もちろんある。それゆえ、解決法を知っており、マスターしている。だから聞いてほしい。あなたの「私」はどうでもいい。それは条件づけられている自動人形である。何に条件づけられているのだろうか。その条件づけてくる力は絶対的な力なのだろうか。あなたが肉体の行為ばかりを見て、そのような表現を強いた力の方を見ないのならば、永遠にあなたは逃避に迷い、真の自己を見出さないだろう。焦点を道徳や倫理観や善悪の概念から撤退させ、怒りなら怒りに対し、それが本当に存在するのか疑問を持って見てもらいたい。見た瞬間、それは無いはずである。見ても在るだろうか。在るならば、在らせているのである。それは執着の問題である。まだあなたは許せない理由にしがみついている。それが許せないものだと決めている。ここに気づき、許せなくてもいいとして、許せない執着の状態もただ見てもらいたい。することは何もない。ただ存在すると思われるものを見るだけである。こういうことが自己探求であり溶解と破壊の過程である。探求の先に、探求を始めた自己は存在せず、高次の自己が立ち現れることをあなたは知るだろう。これが「汝自身を知れ」の意味である。あなたは最初から真我だったのである。
- 自分がどうであれ、抵抗しないことが鍵なのでしょうか。私は確かに抵抗しています。良くないものを良くしようと思っています。これは抵抗かもしれません。しかし、ただそれでよしとして受け入れるのも違うと思うのです。
思っていい。やがて想念はどこへも導かないことを理解するだろう。私ならどんな想念や情緒とも関わらない。つまり興味がない。あなたはそれらを餌とした自我の自作自演にまだ興味がある。それをただ見ることが肝要である。簡単にできることではないだろうが、長年の瞑想が徐々にあなたを低位から高位の意識へシフトさせ、やがては魂の意識が当たり前になるだろう。そのとき、批判をする対象がそもそもいないだろう。私と全体は同じものである。形態に惑わされてはならない。また難しく考えてはならない。頭では到達できない。想念や努力では理解しえない。ただ静かに座し、おのが動きを見守るだけで問題ない。
- 見守る動機は何でしょうか。
見ているものが本当に存在するのかどうかというポジティブな興味・疑問である。本当にそれは在るのだろうかという疑問は、おのれを真に見つめる者の証しである。やがて、無いことに気づくだろう。あると思っていたものは、どれも存在していないのである。そのとき、あなたは天へ昇る。あなたの意識と賛美歌はほとんど同義語になるだろう。すべてが美しい。すべてが素晴らしい。途方もない歓喜。しかしそれとて一箇の報酬でしかなく、やがて通りすぎねばならない誘惑とみなされるようになるだろう。だが人類に必要なのはまずこの自己充足という意識領域の開拓である。すると争わなくなる。すると外に何か必要だと思わなくなる。まだ失敗はするだろうが、道が終盤であることをあなたは理解するだろう。そして二度とそのレベルの苦悩や悲哀を味わうことがなくなるだろう。それらはまさに愛へと取って代わられる。なぜなら分離は存在しないからである。
- 私のような意識から、あなたがそのような意識に入るまで、どのくらいかかったのでしょうか。
個人差があるから参考にすべきではない。私は怠惰だった。努力家ではなかった。真剣に瞑想する者という修行的な姿とはかけ離れていた。しかし常に瞑想へと帰った。そのうち、何が本物で、何が偽物かを識別するようになった。そこには、誰かのようになりたいとか、悟りたいとか、およそ瞑想者が陥りがちな欲望はなく、ただ、乱れたものを調和させるために瞑想し、調和したときが常に帰還であり、外や自我意識へ戻されることが苦痛であり、このようないわゆる二重性の時期を静かに歩んだだけである。天は我らが内に在り、在天の父が我々を見放すことは決してないことを完全に理解した。むしろ、この内なる神の導きに反応できなかったのが自分であるということに自我は気づいた。こうして、この無限の慈悲、無限の愛、言語を絶する至高にひれ伏すようになった。これが明け渡しであり、調和であり、合一である。それを引き起こすのはまさに愛と呼ばれる力である。我々の神は愛である。だから焦ることも、未来を恐れることもなく、我々は今日もただ瞑想するだけである。
目次