引き続き引用させていただく。
今の私の目標は、瞑想状態を日常生活でどれほどまで維持出来るかどうか、だと認識しております。
これは、秘教徒が第三イニシエーションと呼んでいる大いなる変容のクライマックスが個我に訪れるまで続く重要な目標である。秘教用語に抵抗がある方も少なくないため、672夜では簡単に融合と呼ぶことも多い。合一や一体化の完了である。しかしこの維持は、一筋縄ではいかない。この時期、あまりに真面目に考えすぎる場合、諸体を損傷させてしまう危険がある。真剣さは重要だが、そこには常識とバランス感覚が必要であり、その中には適度な休息や娯楽といった要素が含まれることを強調しておきたい。魂の意識を維持することは決して最初から簡単なことではない。諸体に対し、魂の掌握度が高まるにつれて、これは容易になるが、容易になるまでは時間が必要である。魂は法則を知っており、法則の中で働いているが、個人の意志は法則に反する錯覚であり、ゆえに個人的な霊的願望に条件づけられて、無謀な努力という誘惑に屈し、苦痛に耐えながら高位の意識の維持を長時間にわたり試みないよう、皆さんにお願いしたい。苦痛が感じられるとき、それは常に――法則という観点から――何かが間違っているのである。
しかし、ひとたび魂の意識をもって生活し、(このような表現が許されるならば)あの「高所」に随意に達することができるならば、形態性質の浮き沈みが彼に影響を与えることはなくなる。そのとき彼は、物質生活の界層から魂の領域へと続く狭い両刃の剣の道に気づき、もしその道を着実に辿るならば、その道は変幻極まりない感覚の世界から、明るい日光の中へと、リアリティーの世界へと彼を導くということを発見する。そのとき、生命の形態面は彼にとって単に奉仕の領域になり、感覚的な知覚の領域ではなくなる。この最後の文章を熟考し、魂として生きることを目指しなさい。そうすることで、魂から放射されている周期的な刺激の責任は自分自身にあり、それが自分自身が送り出したものであることが分かる。そして、彼は自分自身がその原因であることを知り、結果に支配されることはなくなる。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック上」p.87
この魂意識は、原理さえ分かれば、そこに到達するための道はより容易な、より知的な、より意識的なアプローチが可能であるし、それだけ短期間で済む。それはどのような原理であろうか。まず伝導体になったならば、魂のエネルギーが流入するようになるだろう。このエネルギーが重要であることを、かつて私は本能的には理解したが、そこからどうすればよいのか、しばらく分からずに悩んだ。今は分かっているから書く。当時の間違いは、自我と魂のエネルギーが別個のものであるとマインドが考えていたところにある。皆さんもまだ自我の感覚があると思うが、私はその自我で、魂のエネルギーに対しどうこうしようとしたのである。しかし、瞑想を続けるにつれて、自我の感覚は希薄化し、魂の感覚の方が優勢になり、私と魂とエネルギー(霊)が全く同一のものであることを理解した。このとき、「何かをする」という論理自体が成り立たないのである。私しか実在していないのに、誰が何をするのだろうか。行為とはイリュージョンなのである。魂意識という融合した「高所」へ、例えば目を瞑るだけで入れるように最初はなる。その魂意識が啓示するのは、エネルギー自体が一つの意志であるということである。別の言い方をすれば、彼のみが行為者であり、媒体の動かし手なのである。したがって、必然的に以下のような認識に到達せざるをえない。
第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。
光線とイニシエーション上 p.56
初心者には非常に重要であるように常に思える最初の二つのイニシエーションを授けるのはキリストである。第三イニシエーション以降は、「神の意志の中で働く適性を試験する、荘厳なパワーを備えヴェールに包まれた臨在」に注意を向ける。「神の意志の中で働く」という言葉に注目し、シャンバラに焦点化しているこの意志が偉大な根本的エネルギーの一つであることを覚えておいてほしい。イニシエートはこの意志の中で、この意志を通して働くよう学ばなければならない。
新時代の弟子道6 p.202
この世の書物は、何かと意識に焦点を当てているものが多い。例えば、「真我とは純粋意識であり、純粋意識が人間の到達目標である」といった趣旨のものである。すべての背後に真我が実在するが、純粋意識だけが真我というわけではないし、そのような純粋意識の達成によって啓示されるのは、霊すなわちモナド、エネルギー自体、生命自体である。その意味において第五段階のイニシエートは、「モナドの目的は意識の拡大ではなく、そのような意識の拡大が啓示するものの拡大である」と言っている。意識よりも重要なのは神の意志様相になり、そのような意志が解き明かすのは神の計画と目的に関する惑星的な神秘についてである。この意味において、意識は惑星レベルにまで拡大することになる。我々が生きているのは、個人の真我実現でも悟りのためでもなく、そのような真理やリアリティーが啓示する神の大計画の成就であると言い換えることも(多少の語弊を許してもらえるならば)可能だろう。そして、そのような成就を推進する力や意志は、「偉大な根本的エネルギーの一つ」の様相であり、神の第一様相である。それゆえ、我々にとって重要なのは、意識ではなく、意志なのである。我々の生や生の目的は、そっくり神の目的にならねばならないのである。
話を少し戻す。魂のエネルギーの伝導体になった後、我々がすべきことは、それまで自身と見なしてきた統合体にその新しいエネルギーを浸透させ、そのエネルギーに最初から備わる意志を見出し、その意志と一致することで融合を促進することであり、その結果、意識はより高みに昇り、そして拡大する。この段階における意志は、第三イニシエーション後に重要と見なされるようになるアートマ的な意志ではなく、魂の意志様相である。したがって、引用した文章においては、第三イニシエーション以降と書いてあるが、それより遥か以前に、魂の意志様相が発見されなければならないのである。……
ここまで書いてきて、次のようなことに気がついた。別の存在の定義や概念に沿って解説を試みる場合、厳密さが要求されるため、かえって小難しくなると。したがって要点をより簡単にできるよう努めたい。いま、魂としてアストラル体を統御するに従い、魂の力やエネルギーといったものが強くなってきているはずである。次に、そのエネルギーに自己を委ねることで、魂の振動率とリラックスして一致できることに気づくはずである。この、エネルギーを行き渡らせるということに魂として特化し、そうすることで具体マインドを多少静かにさせられるならば、あらゆるものの区別や分離というものがなくなっていくことを理解するはずである。そのとき、我々がアートマ・ブッディ・マナスなど様々なものを分割して概念化しているものすべてが一つなるものであり、このような文章を書いたりするときにそれを具体化するときだけ分割があるのであって、実際は一つのものであることが理解されるはずである。このとき、存在していること自体が最高目標であったことを知るのだが、その最高目標である存在自体はすでに常に達成されていたことをもまた理解するのである。
一応ここまで書いたが、このような境地というか、存在の状態に意識が至るまで、意識よりも、意志に目を向けるべきだというアイディアに関して書きたかったのである。この方が、遥かに到達することが簡単であるし、遥かに短期間で済むからである。一方で、特定の意識を達成しなければ、このような意志を理解できないことも事実であり、段階を追った説明の仕方を採用するときはいつものことだが、概念をこねくり回したはいいものの、その結果、理論的に強度のある翻訳や通訳にはならなかった。というのも、あらゆることが、実際には段階的ではあるが、しかし同時に起こるものでもあり、小学校一年でこれを習い、二年でこれを習い、といった完全に順序通りではないため、納得のできない記事になってしまった。とはいえ、このような書き手の混乱はある意味で有意義であり、また読み手にとって面白いもの、発見や閃きにつながる部分もありうると思うため、もはやこのままアップすることにする。