おのれを良く見せんと固執するとき、人は臆病なまでに自信がない。自信とは、外的な自己の自信ではなく、内的な認識がもたらす喜びの表現である。あらゆるコンプレックスは外的人間のものであり、彼や彼女の改造は、賽の河原に石を積むがごとく際限がない。したがって、恐怖とはつねに内的無知に由来している。人間が瞑想し、外的形態から静かに撤退を願うとき、果てもない喜びに到達する。魂と整列したとき、自信なき者の弱さは追放され、恐怖は喜びに置き換えられる。天壌無窮の喜びに穏やかに安らぎ、私は喜びであり、ゆえに強さであると感じる。無敵とは誰よりも強いことでも敵を作らないことでもなく、何からも影響を受けることのない実質を我が内に知る者の分離なき永遠の至福、我がいのちのことである。
我々は自己改善に駆り立てられる。それは恐怖の産物である。改善すべき自己ではなく、改善することなく完全である自己へと焦点をずらす技術がいま必要とされている。世界中の人間が恐れている。もし私が肉体なら、死を恐れ、不幸や災難を恐れ、肉体や精神を脅かす敵を恐れるだろう。幸い、我々はそれ以上である。この言葉が理論であり事実でない場合、私にはそれはできないという苦しみや劣等感に騙されるだろう。そのような情緒を私は事実かどうか見てきた。そしてどのような感情も、ただ見るならば、魂の輝かしい白光に消し去られることを驚きつつ見守ってきた。感情とは、つねに非常に粗雑な低位の波動である。我々が内在の魂であるならば、低位の振動や表現は感じることすらできないのである。恐怖心は魂が克服する。人は不快な感情や心境を嫌だと感じるため、それらの存在を認め力を与えた上で、対抗する手段を講じようともがく。我々が内在の自己であるならば、不快さは自身を個人と同一化したがゆえに感じられた錯覚であることを知るだろう。よって不快からは逃げない。魂として我々は不快さを受け入れる(それがありうるならば!)。つまり、不快であることに抵抗しないし、何もしないし、気づき、焦点を合わせて寄り添い抱きしめるだけで、不快は久遠の快にハートで変性されるのである。
しかしながら、霊的な快を感じているのはマインドである。感覚体つまりアストラル体が浄化されたとき、それはより高位の相応する体を反映するものでしかなくなる。アストラル体の場合、それはブッディ体である。そのため低位感覚の知覚は失われるが、高位の印象づけ(神のマインドからもたらされる目的と計画に関係する印象づけ)に対しては敏感になる。したがってマインドは、次にすべきことを自ら知ることができるのである。ここに、書物や他人の教えに従ってはならない理由がある。真の内的探求は、その者独自のユニークなものである。途中までは他人の教えで導かれはするだろう。しかしながら、常に霊的前進は、高位の認識を脳意識までもたらし通すものであり、他の誰かが教えた概念を決して維持させないものである。真我探求は観念探求ではない。したがって瞑想は、常にマインドを沈静化させるものでなければならない。そしてメンタル体が統御されつつあるとき、相応する高位のパワーつまりアートマ界の霊的意志が強烈に導き貫くだろう。それは本質的にはモナドの意志であり、よって集中させるのは個人とは関係のない霊的意志である。アートマ・ブッディ・マナスという霊的な三位一体は、それぞれメンタル・アストラル・肉体の高位の相応でしかなく、したがって低位我の三位一体は、やがて高位我の三位一体(霊的トリアッド)に意識を移行させる。これを通じて、人は生命自体つまりモナドに貫通する。
第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。……訓練を受けているイニシエートの姿勢は正しい霊的な動機――神性の意志様相つまりモナドの知的な遂行という動機――という姿勢になるべきである。そのためには、パーソナリティーの自我意志を魂の犠牲的な意志に没入させることが必要である。それを成し遂げたとき、それは聖なる意志の啓示につながるであろう。この意志について、イニシエートではない人はどのような概念も持っていない。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上 」p.55
したがって、瞑想が本来関与するのは、神性の第一様相である。なぜなら瞑想は、低位と高位の橋渡しに関するものでしかないからである。低位から高位へ意識と生命が移行したとき、我々が瞑想と呼んでいるものは役目を終える。
実際のところ、瞑想の科学は、アンターカラナの科学の準備になる補助的な部門である。それは実際、意識内での橋渡しに関する科学である。この瞑想の科学によって、……個人的なマインドをやがて高位マインドに、後に普遍マインドに関係づける。
新しい時代の教育 p.154
瞑想は、我々の個人意識を消し去り引き上げる。そのため、個人のあらゆる不快や苦悩や恐怖は超越される。意識は個人との同一化を失い、より普遍的なものを認識させる。かつての私つまり個人は、苦痛さえなくなればいいという考え方だった。霊的なものにさほど興味はなく、悟りなどの宗教的概念には何ら興味がなく、ただ自分の苦痛、自分の恐怖、自分の不安だけが無くなればそれでいいと思っていた。それで瞑想を始めたわけではないが、静かにしているとき、個人的なあらゆる不快が和らぐことは確かだった。やがて和らぐどころか、それまでは決して想像すらできなかった素晴らしい意識へ入れるようになっていった。つまるところ、自分と呼んでいたものに対する問題がなくなっていったのである。この場合、新しい問題は、すべての兄弟姉妹の問題に変わってしまう。誰かが苦しいならば、それが私の苦しみになる。誰かが置き去りにされていると感じているならば、その意識をこちら側へ引き上げることが願いになる。あらゆる個人意識を、魂の普遍意識へつなげ、個人の問題から完全に自由になってもらいたい。魂の意識は、全体つまり一なる意識であるがゆえ、個人の問題は全体の問題に置き換わり、個人の目的もまた全体つまり神の目的に置き換わるようになる。したがって、結局のところ、個人的なものが超越されたあと、我々の世界において、我々の望みは奉仕だけになり、我々の行為はすべて高位の反映である奉仕しかしなくなる。
奉仕の科学は、他の二つの科学(アンターカラナの科学・瞑想の科学)の適用に成功した結果、当然のこととして自然に発展しゆくものである。魂とパーソナリティーのつながりが進展し、計画についての知識と魂の光が脳意識に注ぎ込むにつれて、自然に低位のものは高位のものに従属するようになる。グループの目的やグループの計画との同一化は魂に元々備わっている属性である。この同一化が、メンタル・レベルと魂のレベルで進められるにつれて、パーソナリティー生活にそれに対応する活動が生じる。この活動を私たちは奉仕と呼んでいる。
新しい時代の教育 p.155