充電と放電

毎朝、魂とダイナミックに接触するよう努めなさい。そうすることで、そのとき接触したパワーと知恵、開かれた経路の純粋さが、接触を維持する必要性を絶えず思い出さなくても、その日の活動中、保たれるようになるだろう。これは、存在する、という新しい概念への第一歩である。非常に多くの弟子たちが、弟子でいようと努力している。ある段階において、これは正しく、適切で、極めて必要なことであるが、いずれは意識的で、ダイナミックで、リズミカルな接触を二十四時間ずっと維持するようにならなければならない。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道 4」 p.165

これは、アストラル体の統御を訓練している弟子への言葉である。低位我は、肉体・アストラル体・メンタル体という三重の統一体であるが、人類の大半がアストラル体のフォースと同一化し、その情緒的な力に動かされている。真我つまりこの場合、魂がアストラル体を掌握しなければならない。次に、瞑想つまり集中を通して三重の諸体を魂に整列させ、この融合状態を維持することで、高位我である魂の新しい意識に参入できるようになる。したがってD・K覚者は該当の弟子に対して以下の提案をしている(その中からいくつか抜粋する)。

  • 整列。これを意識的に、速やかに達成する。
  • マインドを光の中にしっかり保ち、魂に再充電してもらいなさい。
  • 三分間、完全に沈黙し、意識を動かさないようにしなさい(三分間はかなり長い時間である)。そのとき、霊的な光とフォースを充電することができる。どのようにして充電されるのであろうか。それは、あなたの真我である魂がパーソナリティーとしてのあなたを魂自身の内に引き寄せることによってである――これはあなたが励まなければならない同一化の過程であり、カトリック教会の神秘家たちが「合一の真の静寂」と呼ぶものである。
  • 次に、創造的な想像力を用いて、この帯電とこの刺激とイルミネーションをアストラル体にもたらし、浄化し、そのグラマーを消散させるように努め、それをアストラル体の至るところに行き渡らせなさい。

繰り返すが、これはアストラル体を統御できていない弟子への教えである。したがって、その段階で多少の整列と、その維持である沈黙、それによる魂意識への参入(これが存在することを教えるものである)がわずかなりとも可能になることが示唆されている。つまり、この意識段階は我々に遠いものではありえない。まだマインドが完全に乗り越えられることはないが、それは明らかに自我意識ではない。自我や個人がどれだけ心理的に苦しい境涯にあろうと、この意識に入ることで、一秒もかからず全ては美と喜びに変わる。

そのとき、我々は自身が個人ではなく魂であることを認識しており、その中で溶け合い、沈黙という輝ける大海の奥深くへと沈潜している。このとき、地上つまり世界で起こっていることは、今や魂である彼には何の関係もないことである。個人の窮境は魂に何の影響も与えることはできない。瞑想者は、整列と集中を学び、この意識に随意に入れるようになる。これがどれほど価値あることか、80億という世界の兄弟姉妹たちには、まだほとんど知られていない。自身が魂であり真我であることを実際に知っている者と、まだ瞑想をすることができずに一生を自我で生きる者とでは、あまりにハンデがありすぎる。だから、しばしば瞑想に導かれる生涯は個人的に不幸だが、それは何ら悲観する要素ではない。

さて、このような弟子が次に達成しないといけないことは、充電を二十四時間ずっと維持することではなく、参入した魂意識を二十四時間ずっと維持することである。睡眠時は難しいにしても、起きて活動している間、個人的な感覚がなくならなければならない。行為は観照に席を譲り、行為する個人は本質的に全我である存在つまり真我へ席を譲らねばならない。これには、アストラル体の統御に加えてメンタル体の統御が必要になる。上の教えでは、「三分間の沈黙」、つまり意識を三分間、意識自体に固定することが提案されている。これは、どの記事か忘れたが、かつて私が行っていた意識に戻るという手法を紹介するときに書いた内容と同じものだと思われる。つまり、単に意識に戻り、私の場合は「戻った」と言い、それが維持されている間は「戻っている」と定期的に言うことで想念が沸き起こることを防ぎ、やがてそれ自体の領域へと沈潜させるというものである。これを行うことで、気づいたら想念に拉致されているということがなくなる。つまり、マインドの統御は自動的になり、想念が起きた瞬間に勝手に統御されるようになる。これは、「私は誰か」や「私は在る」と、本質的には同じものであり、想念との同一化を防ぎ、意識がそれ自体に留まり、揺らぐことなく、ただ存在することの栄光に落ち着くための基本的な練習である。

充電という言葉は面白い。充電が切れるとモノは動かなくなる。人間は疲労するが、疲労というものを研究したことがあるだろうか。疲労とは、整列から外れて低位我で行為すると考えることで生じる感覚的な錯覚である。もし逆に、たえず整列し、たえず高位我つまり魂に意識を集中させているならば、疲労は肉体に生じないだろう。疲労している人に、「無理しすぎたね」と言うことがある。無理とはなんだろうか。理つまり「ことわり」とは何だろうか。それは法則つまり自然のことであり、自然とは一なる意識、唯一なる生命のことである。分離したときだけ低位我は登場する。そして独立した自己が自由意志の中で行為していると錯覚する。この想念が理に反する無理であり、不自然であり、法則から逸脱しカルマを生じさせるものである。二十四時間の充電を覚えたならば、次は二十四時間の放電を覚えなければならない。これは我々つまり自我たちが行うものではない。充電したのが魂であるように、放電するのもまた魂である。そして、我々は個人ではなく魂である。

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