物質は、我々が見ている世界に顕現している現象的な結果であり、その材料である質料自体は、物質や形態ではなくエーテルである。物質のにも七つの等級があり、個体・液体・気体という下から三つを除けば、他の四つの亜界における物質は、我々の目に見える物質ではなく、目に見えないエーテルである。我々の諸体(肉体・アストラル体・メンタル体)は、このようなエーテル質料によって組み立てられている。よって、諸体の浄化と我々が言うとき、それは諸体の質料の浄化を意味していることを忘れるべきではない。
我々の神つまり惑星のロゴスが顕現したのは、惑星とその部分である森羅万象すべての材料である質料を贖うためであると秘教は教える。事実、一神が多神となり、鉱物、植物、動物、人間といった様々な形態表現を用いて、一つの神が、質料とその結果である物質形態を通して多神として顕現している。
例えば我々は、肉体の質料から浄化を始め、第一イニシエーション後に、本格的にアストラル体の浄化に入り、第二イニシエーション後にメンタル体の浄化に入る。自分がどの媒体の質料に最も引きつけられているかを確認し、該当の体の質料の引力に対して、前回紹介した読者が達成したように、高位の力つまり魂のエネルギーと関係づけることで意識的に破壊するよう努めるべきである。
どの質料にも光が内在している。したがって、
私たち一人ひとりは、自分が発する光の明るさによって認識される。……私たちの諸体に組み込まれる物質の純度が高くなればなるほど、内在する光はより明るく輝くようになる。光は波動であり、波動を測定することで学生の等級づけが行われる。したがって、三体の浄化に精を出しさえすれば、その人の進歩を妨げることができるものは何もないのである。精製の過程が進むにつれて、内なる光はますます明るく輝き出し、ついには――原子物質が優位になったとき――内なる人間の栄光は偉大なものになるであろう。つまり、私たちはすべて、光の強さ、波動の率、音色の美しさ、色彩の透明さによって等級づけられるのである。
アリス・ベイリー「イニシエーション」p.102
魂のエネルギーもまた光であり、我々の三重の諸体の質料の光よりも高位の光であり、「光の強さ、波動の率、音色の美しさ、色彩の透明さ」が異なるものである。人間は現状、道具でしかない諸体の質料のフォースの自動人形状態であるが、魂としての自己に目覚めたとき、彼は魂として、アストラルであれメンタルであれ、低位質料のフォースを、魂のエネルギーによって衰えさえ、低位と高位を混ぜ合わせ、高位によって低位を破壊し、新たに復活させるという、光の技術を習得するようになる。「エネルギーは思考に従う」はオカルトの決まり文句である。ならばもし、弟子が魂として、神の喜びに満ちた意志を理解し、神の目的と計画に理解のおよぶ範囲で参画し、まず己を閉じ込める諸体の質料の浄化に魂として知的に取り組むならば、迅速に、急速に、低位質料は高位の光によってオカルト的に上げられる。低位性質は消滅し、前の太陽系から受け継がれてきた質料に内在する光は魂の光によって強められ、特質づけられ、その強さ、振動率、音色、色彩、そして香りは、弟子がそのとき偏極している界層における魂の光と同レベルにまで引き上げられ、浄化精製される。このようにして人は進化する。
魂と接触している読者の方々は理解していると思うが、魂はこのような光の働きかけを我々の媒体の質料に対して(強弱の周期はあれど)常に行っている。魂は無休の奉仕者であり、霊は魂を介して神の意志を遂行しようとしている。もし、我々がこの意志の流れ、魂の意志様相、働きかける明確な方向性を瞑想意識で確認し、その波動と一致しうるならば、何の妨害もなく神の計画は遂行されるのである。ところが、初期段階においては、我々はまだ質料的に騒々しく、瞑想不足であるため、質料のフォースに条件づけられ、無意識に神の意志と逆のことしかできないのである。この意志は自由意志と呼ばれている。個人の意志が、背後の神の意志に歓喜の輝きの中で明け渡されるとき、「内なる人間の栄光は偉大なものになるであろう」。
人間の意志を神の意志に服従させることの必要性に関して多くの教えが協会によって与えられている。しかし、すべての形態に内在し、特に人類という形態において活発であり、そのため喜びと理解をもって行使できるキリストの意志の喜びに満ちた行使については、ほとんど全く教えられていない。犠牲とは幸福を意味し、欲求を「神聖に」する喜びに満ちた過程を意味するというアイディアを欠いている。アストラル界に閉じ込められたエネルギーを別の界層での「啓発された」奉仕に解き放つということは理解されていない。
新時代の弟子道6 p.196
キリストの意志とは、魂の意志のことである。私は、人間の自由意志が瞑想によって静かにさせられたとき、背後にキリストの意志が存在していることを皆に発見してもらいたいのである。なぜなら、そのとき初めて、真に融合の素晴らしさを知ることができるからである。この融合が、キリストの再臨である。外的にもキリストは肉体を纏って再臨するかもしれないが、彼が教えるのは、内なる再臨についてである。ならば、その手段である瞑想はすでに与えられており、正しい瞑想を学ぶための基礎としての書物も存在しており、後は己のみにて実践へと向かい続けるだけである。
魂つまりキリストは父である霊を教えるだろう。神が美であることを、我そのものとして味わわせるだろう。これは、自我というものを、瞑想を通して、あるいは日々の生活を通して、神の意志にのみ服従させてきた、真の犠牲の意味と意義に喜んで精通してきた賢明なる弟子たちに与えられる最高のアートである。彼が見るものはすべて美しくなる。それは彼という存在自体が原初の存在として美しく輝いているからである。彼は光そのものとなり、また同時に、すべてが光であることを見出すようになる。神は、我々の内に内在していたのである。そして、すべての内に内在していたのである。神は至るところに遍満しており、偏在しており、これを弟子が知るとき、彼は「臨在のテクニック」を習得し、常に自身と神が一体であるという意識を受け入れるであろう。
これは、言葉では表せないほど素晴らしいものである。どんな人も、この領域において救われる。余命宣告をされていようが、離婚の訴訟で気が滅入っていようが、最愛の娘が無惨な死を遂げたばかりであろうが、関係なく救われる。誰も死なないということを我々は命として理解するし、すべてが自分であることを理解するのだから、あらゆる恐れや悩みや苦しみは無知の結果であって、存在していないことを理解するのである。我々は、己を捨て去ることによってのみ、この領域に招かれうる。魂のエネルギーがすでに流入している人は多いが、真にアストラル体とメンタル体を魂に従属させつつある人はまだ少ない。これは一つには、何をしていいか分からないからだと思う。私がここまで書いてきたようなことを知る機会がなかったからだと思う。私にも教える者はいなかったが、私は魂から直接教わる術を習得してきた。どのようにして。最終的にはマインドを静かにさせられるようになることで、天上の知恵の宝庫と直通するようになり、直観の能力――答えを瞬時にもぎとる能力が発達するようになる。つまり、人々は頭で考えるが、瞑想する者は、頭や脳やマインドを静かにさせることで、考えずして直接知ることが可能になるのである。この直接知る能力によって、何が霊的に正しく、何が神の意志に叶うものであるかを、概念ではなく、意志もしくはエネルギー的に理解するがゆえ、喜びに満ちて何もかもをも犠牲にできるし、あらゆる執着から喜んで自由になり、融合つまり自我の死へと、最高の喜びを携えて向かうことができるのである。
魂のエネルギーの使い方を、アストラル的に習得した人が現れて私は嬉しい。そして彼は言う。進歩が急速化していると。そのとおりである。だから第二と第三のイニシエーションを同じ生涯で受ける人が多いのである。しかし、まだ多くの兄弟方が、アストラル界で苦戦しており、目が見えないため、識別力に今は乏しく、魂よりも自我が活発である。しかし、毎日瞑想を続け、続けられること自体が神の恩寵にして導きの証しであることを知り、したがって法則通りにゆっくりと進歩しゆくものであることを知り、霊的発達を焦らず、眼の前の自身の課題にのみ取り組むならば、次第にアンターカラナは構築され、それが進展するとともに魂のエネルギーは頭部から流入するようになり、その力が後の面倒を見るようになる。我々は無力であるが、力自体が流入するようになり、その力は、一般的な人間が知らない途方もないパワーである。したがって、努力的に一生懸命になることが間違いだと知り、できるときに静かになり、静かにしていることが心地よいことを知り、その感覚にとどまっていてください。それは、心地よいからそこに留まるのであって、書物が言うような意識を求めるから瞑想するのではないのである。知識は捨て去り、瞑想で眼の前の意識のみを扱うべきである。なぜなら、わたしじしんが答えだからである。
