光の糸

我々は、一秒でも不幸であってはならない。なぜなら、自我に焦点を合わせぬかぎり、一秒も不幸にはならないように設計されているからである。これは、自我で生きてはならず、真我で生きねばならないことを示している。分離した肉体意識に生きるのではなく、ひとつの意識、ひとつの命に生きるよう、人生経験つまり葛藤と苦悩を通して教えられている。偽の人生と、真の人生の二つがある。感情や欲求、そして想念と同一化して生きるのが偽の人生である。言い換えると、アストラル体と低位メンタル体に生き、それらの界層のフォースに肉体を従わせる人生が偽りの人生である。それらを統御するにつれ、われらが内に、聖域からの本流が流れ込む。それは最初に静けさという奔流であり、静寂の先に至福の平和があることを教えるだろう。そしてそれは愛の奔流であり、愛に生きることがすなわち喜びであることを教えるだろう。自身への愛ではなく、利己主義ではなく、全体にして唯一なるものへの愛が解放の鍵である。

我々が自我意識しか知らないとき、疑心暗鬼に陥るものである。自分には無理に違いないと。そして、知ることを恐れる。挑戦することを恐れる。結局自分には無理だった、という言い訳を残しておこうとする。これらは、自我の誘惑でしかない。物質という相対的な悪にとどめ置くための囁きでしかない。なぜなら、闇は光を恐れるからである。無知は知恵を恐れるからである。偽物は本物に登場されると困るからである。肉体意識という、物質の暗黒時代、我々の内なる目は制限される。アストラル偏極しているため、内なる知性も限定される。これは、途方もない苦しみの時期であると同時に、苦しみの理由、苦しみの原因を、自身に見出す時期である。一切の苦悩の原因が、運命でも出来事でもなく、間違った自分の所有にあったという、たったこれだけのことを知るがための、地獄の季節である。

平均的な人類は、自我に生きることで、いわば魂の年齢に応じて、何らかの経験を積んでおり、したがって自我意識が正常であり、自我を謳歌することがむしろ幸福であり、そこに苦痛性を感じることはない。しかし、自我の輝きに生き、自我の幸福を実現することを求めつつ、数年か数十年でその自分が死体になることを忘れている。本当の命を忘れている。何のために物質に入ったかを忘れている。だから誕生日おめでとうと言う。全く何もおめでたくはない。成人式おめでとうと言う。全く聖人に近づいていない。結婚式おめでとうと言う。全く合一していない。明けましておめでとうと言う。全く暗闇でしかなく、全く光は見えず、全く明けの兆候は見られない。

生きている意味が我々には閉ざされているのに、なぜこれほどの苦痛に耐えねばならないのか。生の強要は拷問である。これは何かがおかしい。いま書いていて、夜中である。滅多に聞こえ来ることはないのだが、暴走族が、遠くから、生の悲しみを独特の音で表現している。どうしようもない自分たちの生に抵抗している。しかし、生が強要ではなく、真の教養であるならば、つまり私そのものが生命であり答えであるならば、我々の命、我々の生への視力は復活するだろう。天上の視力は、肉の目をつむることで達成される。錯覚から目を閉じるとき、実在が魂を通して働きかけてくれる。最初は、何も分かりはしない。何の感受性もなく、自身という騒々しさに悩まされるだけである。すぐに瞑想の結果を求める者ほど、その無理、その不自然、その瞑想ならざる態度によって、自身の世界に自縛される。賢い者は、自我が何を求めようが無視するだろう。いかなる欲求、いかなる情緒、いかなる想念をも、自我に属する誘惑として、遠目に無視するだろう。

安定した内在意識を知るまでは、諦めることはできない。しかし、自分の発達という錯覚に集中するほど、苦しみは深まるため、瞑想で内に潜りつつ、意識は、つまり愛は外へと向かっていなくてはならない。内なる者は無知でも無能でもないゆえ、自我においては無欲に、我々は静かなる瞑想を確信を持って今日も積み重ねゆく。そして、徐々に黄金が明らかになる。内なるキリスト、内なる仏陀が明らかになる。激しくまばゆいこの内なる太陽は、照らし出す知恵の光であり、温める愛の光である。この光が降りてくるとき、我々はもはや登るだけになる。しかし、自分だけが登るための糸ではないことを我々は一体であるがゆえに知る。この糸が強化され、皆で登れるようになるまで、自分だけ登りたいという分離的な発想は起こらない。我々が神と呼ぶ存在は、誰よりも最後に登る方である。彼が最後に登ることで、完成に至る。これを知ることで、天上に座す神を崇める宗教は崩壊するだろう。誰もが謙虚にならざるをえないだろう。誰もが、自身の苦悩など取るに足らないことを発見するだろう。神は、知れば知るほど偉大である。彼が、全ての者の苦悩を本当は支えている。だから、どのような苦悩も、彼において、一瞬で至福になるのである。我々は彼に帰らねばならない。彼のために、彼に帰らねばならない。彼は真我である。自我は、数十年のはかなき肉体に生きることではなく、永遠なる真我に生きることが真の目的であることを知り、瞑想という人類が誇るべき宝、その価値を見直して、全力で神に、つまり命に専念すべきである。

目次