Ⅰ 映画鑑賞者
映画の中に入り込む人がいる。物語にそって、劇中の人物と同じく喜怒哀楽を味わい、”ハラハラ・ドキドキ”し、泣き、心ゆさぶられ、恐怖し、笑う。応援する人物に敵対する者を嫌い、許せない人物と見なし、その者に不幸が訪れることを願う一方で、わが事のように感情移入している人物には幸福が舞い降りてくることを願う。これらはすべて、脚本家や演出家といった作り手の意図する通りに動かされ、情緒が操作されただけである。操作に成功するほど、それは名作と呼ばれるようになる。映画の鑑賞者は、裏で糸を引いている者らの操り人形になるか、あえて感情を体験したいがために操られることを無意識に欲望するかのいずれかであり、本質的な目的が、アストラル体の飢えを満たすことにあることには決して気づかない。
Ⅱ 人生体験者
人生も、これと全く同じであることを人が気づかないでいるのは、映画が所詮は映画であることを一時的に忘れていたいのと同様に、気づきたくないからである。学力は働いても、知性は働かない。自身が操作されていることを見ようとしたり、世界や自身を離れて見たりするよりも、自身という画面の中の主人公として、日々生じる出来事に喜怒哀楽を感じ、それに応じて行動し、こうあるべき自分へと陶冶すること、それによって求めるものを獲得し、自身の幸福を勝ち取るという、達成の物語に入り込んでいる。あるいは、画面の中の惨めな自分に酔い痴れて、出来事を呪い、攻撃してくる者を恐れ、絶対に許せないと恨み、不幸な自分、無力な自分という自己憐憫の演出に夢中となり、涙を枯らしつつ、また神に助けを求めつつ、見捨てられた気分になり、死を切望するまでになり、そこまでして、”体を張って”、アストラル体の飢えを満たしている。
Ⅲ 傍観者
経験豊かな者は、このような仕組みに飽いている。このような構造を知的に乗り越えている。彼は物語に入り込まず、ただ離れて見る者である。感情や欲求や恐怖に妨害されない者である。何が起きようが、ありのままにそれを傍観する者である。傍観することで同一化せず、関わらない者である。彼は、アストラル界という育児室を卒業している。今日妻が不倫しようが、明日破産しようが、愛犬が暴走する車に轢かれようが、近くの女に痴漢だと叫ばれ周囲に押さえつけられようが、彼は自身の画面を通してそれらを情緒的に解釈することも反応することもない。彼は映像に入り込まず、冷静さに固定され、同じ世界に肉体を存在させながら、隔絶された意識に住んでいる。そのため、知性を妨げることが誰にもできず、何事も彼をアストラル界に引きずり降ろし、動揺させることはできない。だから、彼は安全なのである。だから、彼は落ち着きの先にある”高所”を知っており、その神聖な平和に安らいでいられるのである。彼は、徹底して彼にならない。
Ⅳ 逃亡者
人間の後ろに、純粋な観る者が存在している。人間(前面の自我)に関わらないことで、人の意識は、背後の純粋意識に吸収されるようになる。これが難しいことであるだろうか。目立ちたがる、前面の人間に関わっていたい者とは誰なのか。「私です」。画面の中で、自分でありたいと主張している者とは誰なのか。「私です」。その自己陶酔、ナルシシズムは誰のためなのか。「私です」。徹底して、妨害するのは「私です」。
すべての答えが、この自分にしかないことは、考えれば分かることである。考えられないならば、あるいは考えたくないならば、何かが知性を妨害しているのである。不正な力が治世を妨害しているのである。私が根本原因である。それを知らないから、インドを目指すのである。遠くに教師を探し求めるのである。”等身大の自分”は駄目で、悟った者というスーパーヒーローが必要なのである。子供の頃から人は何ら変わらない。常にヒーローを求めている。常に理想像に飢えている。常に強さを、自分にないものを求めている。それは、馬鹿のすることである。逃げるから馬鹿なのである。
Ⅴ 給仕者
老いた魂は、自分が答えであることを知る。知らないのに他人が言ったから自分を見ようとする者には何も見えず、その人にとっては自分を見ようとすること自体が自分からの逃避であることを教えられるだけである。花を見る時、誰が力むだろうか。自分を見る時、なぜ力むのだろうか。扱っている力が違うのである。力むとき、それは力まされているのである。彼は自身の意図や動機といった、アストラル的・メンタル的なフォースに力まされているだけであり、それは抵抗であり、不自然であり、自然に手を加えようとすることであり、何かを改善しうるという錯覚であり、それらの主は「私です」。私が仕えているのは真我ではなく、アストラル体なのである。これをアストラル偏極と書物は言う。
Ⅵ 知恵者
この「私」で生きることが人を無知にさせ、この「私」を知ることが、真我という知恵へと導く。偽我が偽我を知り、偽我は真我に溶解するのである。答えはこの偽我にある。われ答えなり。力むなら、われ逃避なり。ただ瞑想することである。ただ内観することである。動機や欲求という力ませる力に与してはならない。それは気づきと無視の対象である。なぜなら、気づくことと無視することは同義語だからである。なぜなら、それらは共に同じ領域へと導くからである。それは知恵の領域であり、平和の領域であり、人の世界の力が及びえぬ領域であり、愛という無敵地帯である。なんとこの世界の美しいことか。どんな人間も自我において美しくないが、自我の背後の神性が、内なる世界の身分証となるため、彼として内を探求する者はほどなく楽園を見つけ、欲望で探求する者には災難が訪れることで災難に遭遇せざるをえなかった意味や理由を知る機会が与えられる。
Ⅶ 愛の伝導者
知恵は愛に導く。知識は自己中心に導く。知恵は自我ではなく全我のためのものである。知識は自分のためのものである。知恵はエネルギーであり、知識は(個人を通った後のエネルギーつまり)フォースである。知恵は純粋だが、知識は解釈であり純粋でない。力を識別することである。後者に力まされるのか、前者に委ねるのか。後者で偽我を背負い世界の体験者になるのか、前者で内へ撤退し観照者として世界を眺めるのか。
正しいエネルギー、正しい力のみを自身という器に流すとき、我々は愛である。だから、世界は愛になる。自我という分離の偽りを知恵の光は照らしたが、露わになったのは全我という愛の一元である。映画鑑賞者はアストラル界に仕える利己主義者だが、真我観照者は一なる存在に仕える愛の下僕である。映画の内容は争いであり、我々の世界も争っており、我々個人も日頃より争っているが、それらの無知を癒やすのは愛である。この愛に至ることが我々の職務である。人が愛になったとき、世界は変わるだろう。神の思い描いた世界が顕現するだろう。このような世界を建設するのは我々であり、そのときの我々を動かす力は、神の愛である。