人間は、どこかが不調である。どこかが痛く、何かが苦しい。身体的であれ精神的であれ。大なり小なり、人間はみな病人ということになる。医療が巨大産業になるはずである。子供ですら、不調を治すのは病院だと思っている。大人は病院を選ぶ。あそこはヤブ医者で、別のところには名医がいると言う。あるいは知名度やイメージで病院の信頼性を測る。いずれにせよ医療従事者に頼る。全体的に見て、医療機関が処方する薬、ドラッグストアが販売する類いの日常的な薬、あるいは違法薬物、なんであれ薬を常習的に飲み続けている人間は、入手することが可能な環境や財力を持つ者であれば特にそうだが、かなりの割合にのぼる。生活構造そのものが、もはや薬を前提とした身体管理を標準とする仕組みになるよう、産業的に構築されている。この事実は悲劇に属する。したがって解消する必要がある。
知り合いが、首か頚椎の病で悩んでいた。首を動かせない。動かすと強い痛みが走る。寝るときも横向きになれず、四六時中固定した状態である必要があり、まともに眠ることすらできず、この眠ることができないことの地獄のような辛さを訴えてきた。この人には多少の学びがあったため、根本原因を放置したまま薬や医者や医療の常識に当てはめられることを拒み、どうしたものかと切に助言を求めてきた。とにかく座ってもらい、背筋を伸ばして体勢を整えたまま静かにしてもらった。私は意識でその”患部”を見て、不調にさせている気の流れを見た。つまり患部へ意識を集中し、不調和自体に力が働きかけるよう直に繋げる経路となった。数秒で、その人は首を右や左に動かしたり、回したりし始めて、「何の痛みもない!」と言った。どういうことが起きたかと聞くと、その者の言葉でいえば、「首の骨の中の小さな二つの骨が二回動き、その二回とも痛みが走ったが、その後何も起きないので首を動かしてみたら治っていた」との事だった。
この話には続きがあるが、私が語るべきは「治療する力」についてである。はっきり言って、私は彼に何もしなかった。力がどう作用するかを予め知っていたわけでもない。私が知っていること、確信していることは、霊的な力で治らぬものはないということである。普通の人は、恐怖を和らげるために、病名を特定したがる。そして、知識や権威によって特定された場合、その病名と病気を受け入れる。私からすれば、外的に現れる病気の種類は関係ない。その背後の、あらゆる病気や不調の背後で蠢いているエネルギーの流れだけが関心の対象である。医者ならば、この病気にはこの薬、この病状にはこの処方あるいは手術、といった教科書原理主義的な考え方である。霊的治療の場合はそうではなく、シンプルであり、外的なあらゆる病気の背後の乱れた気に、乱れる前の気を処方するだけである。私はいま、途方もなく価値ある話をしているつもりである。
皆が不調に苦しみ、不調の対処法が病院や薬など外部のものであると信じている時代を終わらせたい。親知らず(智歯)の痛みを取りたいならば歯を抜いた方が早いだろう。外部に頼るなと言っているわけではない。各々が、自身の内部に自身の不調を癒やしうる力を秘めており、この力を解き放つことが可能であることを伝えたいだけである。これが医者の役割ではないのか。多額の出費を伴う常習的な薬への依存へ平気で患者を導くことが解決ではない。これは仁術でも人道でもない。自己治癒させる力を自らに浸透させ、滞りなく自在に流れさせ、患者の不調の原因である気の乱れを正し、その正し方を本人自身が習得できるよう導くのが善き務めであるに違いない。カルマ的に治せぬものもあるだろうが、ほとんどの不調や病を自分で治せるという事実が人類の常識になるならば、途方もない喜びが人類に解き放たれるだろう。キリストが足萎えを治したように、自身のあらゆる不具や不調を、内なるキリストの力によって常に整え治すこと、あるいは「値なしに」互いに治し合うことで、苦しみ悶える人々の表情は人類から消え去るだろう。愛と喜びと笑顔が世に輝き始めるだろう。
霊的な力とは、治療用の力というわけではなく、万能力である。全知全能の力であり、何にでも応用可能である。この世で博学を誇る者がこの力を見るならば、すみませんでしたと言って退散するだろう。力量の差、以前の問題である。なぜなら別の次元の力だからである。本来は、別の次元ではなく、この力が真の力として知られるべきものであるが、我々が個我意識であるゆえ、常に本物の力は無力化されるか、知覚されずにいるか、その一部が誤用され続けており、この歪曲された後の力のことしか我々は知らないのである。個人の意志で力を振るうなら、その力は常に法則から外れることになり、ここにカルマの発生原因がある。「病気は、望まれるように、つまり計画通りに機能していないエネルギーである」と聖人が言ったように、法則と一致している時のみ、望ましく計画通りに力は流れることができる。力は、決して個人に属するものではなく、神性の偉大な表現である。よって、個人の自由意志という錯覚が神の意志へと知恵によって返還されるとき、その者は法則自体になる。その者の体は神の計画に純粋に協力するための完全な媒体と化し、彼は信徒ではなく協会そのものになる。このとき、我々にはいかなる病気も苦しみもなくなるだろう。
力とは、決して我々の力ではない。我々つまり私とは誰か。瞑想でその私は消え去るだろう。ただの想念でしかなかったことに気づき、沈黙の中でその非実在性を理解するだろう。瞑想が教えるのは決して知識ではない。知識のように具体化される前のものであり、それは瞬間的に直接的に知る類いの形なき知恵である。この知恵の力は神の力であり、法則に適った力であり、何にでも応用可能な全能の力である。私は一度たりとも治療について学んだことはない。瞑想で理解したことを応用しているだけである。それは、誰にでも可能であることを意味している。この力を得んがために瞑想する者には当然ながら力は宿らない。あらゆる利己的な動機、個人的な不純が去り、高位我へと整列し服従し、純粋になったときだけ、認められた安全な通路になりうる。不純な媒体でこの力やこの電気的エネルギーを流すならば、その者は死ぬだろう。だからゆっくりと、徐々におのれを磨き上げることが賢明である。個人的な動機から急ぐのではなく、必ず法則通りに事が運ぶことを理解して、内なる天才つまり神を信頼して、その力へおのれを明け渡さねばならない。この技術を教えるのがまさに瞑想である。そして瞑想には、外的な師は必要なく、内なる神だけで十分である。
