具体マインドと抽象マインドの違い

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知性の限界

現代において「知性が高い」とされる人々は、必ずしも真に思索する能力を備えているわけではない。彼らは膨大な知識を蓄え、専門分野における深い知見を持つかもしれないが、それでもなお、本質的な問いに対しては無力であり、しばしば個人的な問題に躓いている。そしてしばしば、知的な生き方をしていない。彼らは「知的」であるはずだが、なぜ知的ではないのか――この問いこそが、本質に迫る鍵となる。

宇宙医学のドクターとの対話

先日、宇宙医学を専門とする方と「ディスカッション」する機会があったが、その対話は「知識人の無知」という問題を鮮明に映し出していた。彼は自身のことを「ドクター」と呼ぶように言い、あまり私に話す余地を与えたがらなかった。「いいですか、私はドクターなので」と彼は言い、微小重力が人体ないしは筋力に及ぼす影響や、宇宙空間での健康維持について専門的な知識を一方的に展開した。

そうした話は分かった。「何が治すのか」「免疫力とは何か」「医者や薬が治せないなら、治す力とは何か」といった根源的な問いを投げかけると、彼は答えるのではなく、あくまで自らを知る者の地位にとどめ置き、逆に「それは何だと思います?」と問い返すのだった。それは、医学的な定義をもとに私の答えを採点しようとする試みであり、「ディスカッション」の名を借りた講義のようなものだった。

最終的に、「それは哲学の話だ」とつぶやきながら、不快な表情を浮かべ、一連の問いを軽くあしらった。この反応には、彼が長年学び、信じてきた既知の体系つまり知的信仰への心理的依存と、それを脅かす未知の問いに対する防衛機制が働いていることが見て取れた。「ディスカッション」はもはや知識の押し付けであり、共に探求しようという精神の不在を意味していた。


このような例を通じて、我々は「知識を持つこと」と「抽象的に思考すること」の違いを浮き彫りにすることができる。ここに、具体マインド(Concrete Mind)と抽象マインド(Abstract Mind)の本質的な差異を知ることができるのである。これは極めて重要な箇所であることを強調したい。言い換えると、自ら答えを引き出す能力と関係するものである。

具体マインドと抽象マインドの対比

  1. 具体マインド(Concrete Mind)は、知識を整理し、分析し、応用する能力を持つ。それはデータを収集し、理論を体系化し、既存のフレームワーク内で問題を解決するのに長けている。科学技術、医学、法学、工学といった分野の多くは、この具体マインドの働きによって支えられている。

    したがって、知識人たちは、霊的な概念をも同じ方法で理解しようとする傾向がある。つまり、霊的真理を単なる情報の集積や論理的体系として捉え、書物や教えを重宝し、具体マインドに留め、概念的娯楽を楽しもうとするのである。しかし、霊的理解とは、単なる知識の整理ではなく、より高次の意識と接触し、それを低次のマインドへと伝達するプロセスである。そのため、具体マインドと抽象マインドの領域の違いを明確に示す必要がある。
  2. 抽象マインド(Abstract Mind)は、既存の枠組みを超え、原理そのものを問い直し、新たなアイディアに到達させるだけでなく、魂を介して低位マインドにイルミネーションを伝達する器官である。

    抽象マインドは――ちょうど哲学者が行ってきたように――純粋な概念的思索にとどまるものではなく、霊的トライアド(Spiritual Triad)と具体マインドとの橋渡しを行う機能を持つ。言い換えると、それは霊的トライアドとの関係によって開発される特質であり、その最終的な源はアートマ界、すなわち霊的意志のレベルにある。「免疫力とは何か?」という問いは、単なる定義の再確認ではなく、その本質を問うものであり、それに応答するためには具体マインドの限界を超え、より高次の知的直覚(Buddhi)に接触する必要がある。

この対比をさらに明確にするために、数学を例にとって考えてみよう。代数や幾何学の計算を正確にこなすことは、具体マインドの領域にある。しかし、「数とは何か?」「それぞれの数は何を象徴するのか?」と問うとき、それは抽象マインドの領域に入る。具体マインドは確立された理論の応用には優れるが、理論の根本的な再構築や、新たな概念の創造、そしてそれを可能にする魂と霊的トライアドとの関係による直観(Intuition)の通路は、抽象マインドが担うのである。

なぜ抽象マインドが機能しないのか?

多くの知識人にとって、抽象マインドが機能しない理由は、主に現代教育のあり方と、意識の進化段階つまりどの体と同一化しているかに起因する。

第一に、現代の教育は具体マインドを鍛えることには熱心だが、抽象マインドを開発することにはほとんど焦点を当てていない。医学部で学ぶ学生は、病理学や薬理学、生理学といった具体的な知識を徹底的に学ぶのだろうが、「治癒とは何か?」という最も本質的な問いを抽象的に探求する機会はほとんどない。彼らはそれを別の分野、すなわち哲学の問題であり、科学とは無縁なものとみなし、実証的でないものは無意味とする傲慢不遜に陥ることも多い。

第二に、抽象マインドは魂との接触によって活性化されるが、多くの知識人はその道を歩んでいない。それは既知の概念で己を囲い込み、ハートを閉じ、大衆意識への同調を通じて自己の恐怖を隠蔽しているからである。魂は普遍的な原理を認識させる能力を持つが、具体マインドに囚われた者は、魂の直観を受け取ることができない。彼らの思考は、細部の分析に終始し、原理的な理解へと進むことができないのである。

この根本的な問題は、具体マインドに引きこもることで、未知のものに対する恐れから心を閉ざしてしまう点にある。本来は、知的な者が科学の分野から大衆に次世代の啓示を与えることができるのである。しかし、彼は次に買う車の話をしたがった。このような心理的傾向は、真我探求を阻害する最大の要因の一つである。未知のものを拒絶する恐れの態度は、抽象マインドの扉を固く閉ざし、結果として魂の光が届くことを阻む。したがって、あらゆる錯覚を通り抜け、魂に向けて熱心に瞑想する者がいかに稀であるかが理解されるとともに、人類全体が完成には程遠いという現実が胸に突き刺さる。

知性の限界を超えるために

知識の蓄積のみでは、魂に到達することはできない。知識多き者が必ずしも知恵を持つとは限らない。知識は、より高位の本物に鍛えられぬかぎり、脆く折れやすい剣にも似て、振るう者がその本質を理解しなければ、いずれ自身と周囲を傷つける。

抽象マインドを開発するには、まず具体マインドに支配されていることを自覚し、その限界を理解する必要がある。そして、日々の瞑想と感情的ではない静かな生活を通して波動を高め、魂から接触してくる内的交流が始まることで、具体マインドから抽象マインドへ、さらにはそれすらも超えた直観的理解に到達できるようになる。マインドはアイディアを受け取り解釈するための器官でしかなくなり、魂は霊的トライアドを通じて普遍的原理を見抜く者として生まれ変わる。

「治療とは何か?」という問いに対し、単なる治療法のリストを挙げるのではなく、「癒やす力とは何か?」「不調和とは何か?」「病気とは何か?」といったより深い問いへと進むことができるならば、抽象マインドは機能し、答えを自ら引き出せるようになり、こうして人類への有益なアイディアを自身の分野を通して物質界にもたらすことが可能になる。

よって、現代の知識社会において、真に求められるのは知識を持つことではなく、それを超えて「問うこと」、問いそのものを見て「知ること」、そして未知に対して心を開くことである。未知への受容力こそが、真の知性を育む鍵であり、それがなければ魂の光を受け取ることはできず、人間は医学と生命を貪る生きた屍のままである。

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